やっしーの休憩室
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キリストが最も伝えたかった事は、相手を認め、許すこと…
大円鏡智(だいえんきょうち)の扉
自分と他人を区別しない智恵を「平等性智」といいます。
「平等性智」を実践して見た世界は、
鏡のように澄んだ大きな一つの円だと例えられます。
それを、「大円鏡智」
(
真如の月)とも
呼びます。
無明の闇を照らす光です。
天国とは、人と人とが助け合う世界です
。
他人の一つ一つの幸福を認めて眺める世界はイルミネーションの輝きのような世界です。
自分の幸福だけを求めて、争う世界は苦しみに満ちた悲しい世界です。
大乗仏教に「唯識」、すなわち「唯だ心だけが存在する」という思想があります。
「西遊記」の主人公としても有名な7世紀の
中国の僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が17年間もの長きにわたる艱難辛苦の努力の末、インドから中国に伝えた思想です。
今のように、知識がインターネットによって簡単に得られる時代ではありませんでしたから、知識を得る為には命の危険と、何年にも渡る労力
が必要だったのです。
そして玄奘三蔵が手に入れた「唯識」は奈良時代に日本に伝来し、仏教の基本学として脈々と学ばれ続けてきました。
玄奘三蔵の青年時代は、中国が唐としてまとまる以前であり、当時、彼が住んでいた洛陽や長安では戦火が絶えず、街中には死体が散乱していました。
玄奘はその惨状をいったい何故なのだと思い悩み、その解決を仏教の唯識思想に求め、その習得を目指してインドに旅立ちました。
そこには、人間が何故、戦争という最大の愚行を犯すのか、その答えを求めたいという堅固な志がありました。
大円鏡智とは、その一つの答えです。
弟子の慈恩大師(じおんたいし)・窺基(きき)が、その思想を受け継ぎ、中国で法相宗(ほっそうしゅう)という一つの宗派を興しました。
そして、日本
では、元興寺(南寺)と興福寺(北寺)がその宗派のお寺として栄えました。
詳しくはNHK出版の「やさしい唯識」横山紘一さんの本がおすすめです
。
唯識では、意識の奥深くに自分に執着する「末那識」(まなしき)
という意識と、命に執着し身体を生じて維持する「阿頼耶識」(あらやしき)という意識が存在するといいます。
この二つは生きていく為に必要なものですが、これがある為に本当の世界を見誤って自分自身を苦しめてしまうのだと唯識では考えます。
バカにされると、尊い自分が辱められたと思い相手を憎みます。
ところが、あいつはバカだと自分でない人がバカにされている場合だと、それほど怒りは込み上げて来ません。
同じバカにされるという行為でも、自分であるかないかが、ただ問題なだけなのです。
命にしてもそうです。
自分の命は尊いと思うけれど、他人の命などには関心がないわけです。
自分、自分、自分です。
仏教では、自分というものは仮にあるだけで、本当は無いと考えます。
無我です。
永遠に生きれる命など無いということです。
あるのは、縁によって生じた、儚い
今があるだけです。
過去や、未来さえも無いと考えます。
あるのは、物質が絶えず変化している今
があるだけです。
普通の人は宇宙という一つの空間があって、そこに、たくさんの生き物
が共に存在しているのだと考えます。
しかし、唯識ではそうではなく、一人、一人が、自分という心の宇宙の中に閉じ込められていると考えます。
その為、他人の心の中を言葉や表情で想像して察することは出来ても、本当に理解することは出来ないといいます。
他人が食べたリンゴの味は、自分が食べない限りわからないわけですし、
仮に、同じリンゴを同じように食べたとしても、
感性はみんな違います。
おいしいという人もいれば、不味いという人もいるはずです。
だから共同の宇宙があるのではなく、一つ、一つ、心の数だけ、別の宇宙が
存在すると考えるわけです。
そして
、世界があると思っても、それは認識する心があるだけで、その人が死ねば、その世界は無くなるというわけです。
動物にも、自分に執着する「末那識」はあるようです。
縄張り(テリトリー)というものがあります。
餌を確保する為に、縄張りに入って来るものには激しく攻撃を加えます。
生きる為に、自分に執着して争うのです。
動物は、
弱肉強食の世界しか方法を知りません。
しかし、人間はそこまでバカなんでしょうか?
生きる為にでも、他の方法があるはずです。
全ての人が、自分の利益の為に、他人を
犠牲にすることを考えているような世界は地獄です。
他人も自分と同じ人間だということが分かれば、戦争はなくなるはずです。
私は、精神世界の無意識の底では、
全ての生き物が繋がっているのではないかと思っています。
なんの確証もありませんが、愛や、利他の精神の源泉は、実はそこから来るのではないかと思うのです。
フロイトは、自己中心的に生きるより、社会的に生きた方が結果として得をすると判断し、「欲望」が
「良心」を生むと解釈をしていますが、私は生命共通の「良心」が元々、根底にあって、その上に個人の「欲望」があるような気がします。
阿頼耶識が、それを含むのかどうかは私にはよくわかりません。
DNAの中に組み込まれた生物の記憶が共通の「良心」を作り出すのかもしれませんし、肉体は単なる精神を映し出す鏡で、肉体が消滅しても、
精神そのものは別に存在するのではないかという想像をしてしまいます。
この精神が別に存在するのではないかという感情が、輪廻の思想を生んだのかもしれません。
肉体は、親から子へと受け継がれて、精神世界を自分という柵で区切っているだけで、
減りもせず、増えもせず、原子の数だけ世界に存在します。
丁度、それは、テレビのようなもので、スイッチが切れると(死ぬこと)画面に何も映らなくなりますが、他のテレビでも電波を受け止める事が出来れば、放送を見る事が出来るのと同じような感覚です。
人間の肉体が、
自然界の原子を遺伝子と言う設計図を基に繋ぎ合わせているだけで、精神は命を継続する為に生まれた副産物だったのかもしれません。
人類が滅びる事がないようにするには、親から子へという生殖行為を永遠に繰り返さなければなりません。
この世代交代が繰り返される事によって個体に残る自分の遺伝子は他人の遺伝子の数の中に埋もれていき、環境に適応出来た全ての遺伝子の平均的な遺伝子だけが残る形となります。
そこには個人の性格や、善や悪など細かい違いは何の意味も持ちません。
意味を持つのは命を継続するのに適した遺伝子であったかという事だけです。
自分、自分、自分と考えていても、最後には他人の中に埋もれて消えていく形となります。
自分と他人を区別しない心とは、理性や、感性や、記憶といった自分というフィルターを通した心ではなく、それ以外の心です。
それが、唯識が言う、阿頼耶識が、澄み切って変化した大円鏡智の世界なのかもしれません。
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