やっしーの休憩室
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古代の地中海東岸に位置したシリアの一角に、フェニキアという国がありました。
現在のシリアとイスラエルと地中海に面したレバノンという国が、かつて、フェニキアと呼ばれたそうです。
フェニキアとは、ギリシャ語で「紫」という意味だそうです。
ミュレックスと呼ばれる貝から取れる紫色の染料を特産としていたことから、この名前がついたそうです。
この土地に住んでいたフェニキア人は、アルファベットの発明者で、西洋人の言語も、ここから始まったようです。
フェニキア人は優れた商人であり、地中海の海上交易により、繁栄した民族でした。
「フェニックス」という不死の鳥がいます。
その涙は、癒しを齎し、血を口にするものは不老不死の命を授かると言います。
中世アラビアでは炎の中に生きる伝説の動物サラマンダーと混同され、サラマンダーが鳥であるとされていました。
後に、サラマンダーは、火トカゲの王(ドラゴン)と呼ばれ
ます。
中国の伝説の鳥「鳳凰」も、
この鳥と混同されていて、「本草網目」という書物によると、羽のある生き物の王であると言われ、「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」と言われています。
中国の影響を多く受けた日本では、天子は大王・天皇の別名として用いられ、厩戸王(聖徳太子)は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を、隋の煬帝に送っています。
小国である日本が、大国の中国で
暴君と言われた煬帝に向かって、没落を意味する「日没の天子」と呼んで、あくまでも対等という構えをしめしました。
当然、
煬帝は、激怒しましたが、隋が、高句麗遠征を控えており、外交環境から日本との友好関係が必要と判断し、裴清を日本に、派遣しました。
聖徳太子は、
厩戸(馬宿)で生まれたという伝説がありますが、これは、キリストの誕生の伝説とまったく同じです。
「魏志倭人伝」では倭国(日本)には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいないとの記述があり、馬が存在しなかったことになります。
しかし、5世紀前半の応神天皇(おうじんてんのう)の陪塚や、仁徳天皇(にんとくてんのう)の陵墓の副葬品として、馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡、鐙などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、この頃に、馬事文化が普及したと考えられます。
この時期は、丁度、大陸から「秦氏」(はたし)が渡来してきた時期と重なり、渡来人によって、馬が持ち込まれたというのが、真相のようです。
恵比寿さんの使いが馬だと言われるのは、この時、大陸から渡来してきた民族の神様と関係があったのだろうと思います。
恵比寿さんは、海の神様なので、航海民族に信仰されたのかもしれません。
「秦氏」は、ヤタガラス
(フェニックス)を信仰する民で、聖徳太子の参謀となった秦河勝が有名です。
「日出る処の天子」の国書も、
背景には、秦の始皇帝の子孫を称する、秦河勝
の影響が少なくないと思います
秦の始皇帝
は
、自分を宇宙の中心の北極星になぞらえて、「天帝」と呼ばせ、周辺諸国に、
自分
が世界の中心であることを認めさせ
ようと
し
た人物です
。
この時代に、日本列島
が
、「倭」という国号
を
、「日本」という国号
に改めた
のも
、「大王」(おおきみ)
という称号
を
、「天皇」という称号に改めたのも、
日本が、中華思想に基づく、冊封体制(中国との主従関係)に帰属していない独立国であ
り
、日本の天皇と、中国の皇帝とが、同列の地位だということを示すことが目的
だったのだと思います
。
それから、
応神天皇の
母は
、三韓征伐(新羅、高句麗、百済の朝鮮半島への戦争)を行なったことで有名な、神功皇后(じんぐうこうごう)です
。
海の神様、航海の神様とされる、住吉大社の住吉三神から、
神功皇后が、神託を受けて出兵したと言われます。
私は、この海の神様に秘密があると思います。
住吉三神は、八幡三神の祖神とも言われて、
天火明命(アメノホアカリ)の流れを汲む一族で、摂津国住吉郡の豪族の、田裳見宿禰(たもみのすくね)が、住吉三神を祀ったのに始まると言います。
天火明命(アメノホアカリ)とは、ニギハヤヒ(大物主)の別名です。
そうすると
、
住吉三神
は
、外
国の
神様
で、
天火明命(アメノホアカリ)が、この時期に渡来し
たの
かもしれません。
住吉三神は、海の神様、航海の神様とされます。
仁徳天皇が開いた住吉津は、上代(奈良時代 ・ 平安時代初期)に、シルクロードにつながる主な国際港でもあり、この港の守護神が、住吉
三神
とされたのも、納得がいきます。
話が脱線しましたが、そういったわけで、この時代は、渡来人の影響が強く、聖徳太子と鳳凰は、とても
関係が深いということです。
昔は、一万円のデザインの表が聖徳太子で、
裏が鳳凰の図柄でした。
現在は、聖徳太子が、福沢諭吉に変えられ、裏は鳳凰が残っています。
「フェニックス」は、もともと、炎の鳥で、「フェニキアの鳥」という意味の「フェニキアクス」が発祥だと言われています。
フェニキアの国を守護をする鳥らしく、エジプト神話での、ベンヌと言う鳥とも同じだそうです。
ベンヌとは、光輝く者を意味する名前だそうで、黄金色に輝いているアオサギとして、描かれるようです。
私は、太陽の鳥という連想から、ホルス神の方が近いように感じます。
また、ヤシ科のナツメヤシ属の総称がフェニックスだそうです。
果実が赤紫になるので、この名前がついたようです。
日本では棕櫚(しゅろ)がナツメヤシの代わりとされ、富士山本宮浅間大社の宮司である富士氏の家紋が「棕櫚の葉」になります。
ナツメヤシ(棕櫚)はキリスト教と深く結びついていて、フェニックスとは死んで復活を遂げるイエス・キリストに他なりません。
棕櫚についてはこちら
フェニキアには当時、ティルス(レバノン)とカルタゴ(チュニジア)という都市国家があり、地中海に交易の拠点が欲しかったアケネメス朝ペルシアはアテネのギリシャと結んでフェニキアを叩くか、ティルスのフェニキアと結んでギリシャを叩くかのどちらかでした。
アケネメス朝ペルシアが選択したのは後者で、アケネメス朝ペルシアがフェニキア人の海上貿易を保護する形となりました。
日本の秦氏(はたし)は中国の秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の末裔を称しましたが、秦の王族は漢民族ではなく、西戎(せいじゅう)で、羌族(きょうぞく)に近い民族であったと言われています。
秦の始皇帝が中国本土を統一出来た理由は弩(ど)と呼ばれる横倒しした弓の矢尻に「鉄」を使用した事で、的を貫く強力な破壊力を手に入れた事だとも専門家は指摘します。
そして、驚く事は、秦の始皇帝が広大な領土を支配する為に郡県制(ぐんけんせい)や度量衡(どりょうこう)、貨幣、文字などを統一し、馳道(ちどう)と呼ばれる幹線道路を次々に整備していきました。
これらの事は戦国以前や、漢代にも全くなく、それ以降の中国の王朝は全て秦を模範としていて、秦の始皇帝の一人のアイデアで全てが造られてきたと考えるにはあまりにも不自然です。
そこで考えられるのが秦の更に西にあったアケネメス朝ペルシアの存在です。
アケネメス朝ペルシアの州の行政官を指すサトラップなどが秦の郡県制の手本になったのではないかという事です。
また、幹線道路の造り方も秦とアケネメス朝ペルシアはとてもよく似ていました。
つまり、フェニキアとアケネメス朝ペルシア、そして秦や日本が不老不死を象徴するフェニックスで結ばれていた可能性があるというわけです。
フェニックスという鳥は、顔はアオサギで、全身は紫色をしていて、下半身は真紅、尻尾は青く、所々に赤が混じっていると言います。
孔雀や、ケツァールに似ていますが、色として強調されるのは「フェニキア」という意味の「紫」です。
「紫の炎の鳥」です。
好物は太陽の熱で、トウモロコシと黄金のリンゴも食べるそうです。
黄色だから、太陽を連想して、そう言われているのかもしれません。
このフェニキアという土地は、その前は、カナンと呼ばれていました。
フェニキア人が自らを呼ぶのに用いた「商人」という意味がある「ケナアニ」(カナン)が由来だとされます。
カナンの人達が、航海をするようになってから、フェニキアと呼ばれたようです。
カナンの文献への登場は紀元前3千年紀と、大変古く、シュメール人の都市マリと政治的共同体であったそうです。
ヘブライ語聖書に記された神が、アブラハムの子孫に与えると約束した土地でもあります。(創世記12章)
アブラハムと、その息子のイサク、そして、その息子のヤコブまではこの土地に居ましたが、ヤコブの息子のヨセフが、エジプトでファラオ(王様)の宰相にまで出世した為、ヤコブ一家をカナンの地からエジプトに呼び寄せます。
このヤコブ一家が、イスラエルの民(ユダヤ人)です。
しかし、エジプトでイスラエルの民が増え過ぎた為に、今度は、先住民であるエジプト人が警戒感を強め、ファラオの命令でイスラエルの民に重労働を課すようになります。
居心地が悪くなるわけです。
そんな時代に生まれたのが、モーセです。
モーセが「紫の炎」の神様と出会って、奇跡を使える杖を貰います。
そして、この杖を使って奇跡を起こし、イスラエルの民をエジプトから救い出してカナンの地へ戻ろうとします。
ここで、余談なんですが、杖がトレードマークの天使がいます。
「ラファエル」という風の天使です。
ミカエル、ガブリエルに次いで、重要な天使とされます。
いつも、杖と魚を持った姿で描かれ、
なんとなく、釣り竿と鯛を持った恵比寿さんの姿とだぶります。
恵比寿さんも、十日えびすには回遊魚であるマグロ
を奉納する風習があります。
魚と縁の深い神様です。
このラファエルという天使は、風が表すように、旅人を守護すると天使と言われ、ギリシャ神話のヘルメスと同一視されます。
ヘルメスは、ご存知のように、頭がよく、善も、悪も、超越していて、
盗人の神様とも言われます。
欲しいものが出来ると、他人のものでも盗んで手に入れます。
そして、盗まれた人が怒ってやって来ると、その人が喜ぶ別のものを交換で与え、問題を解決してしまいます。
自分も相手も納得する、両方に利益のある最善の方法を見つけ出せるのです。
その為、交渉の神様、商人の神様とも呼ばれています。
ゼウスも、その頭の良さには舌を巻き、自分の使いとしました。
このラファエルという天使は、風なので、ものを運ぶ性質があります。
善い面では、文明や、文化、植物の種子(マナ)などです。
悪い面では、疫病や、台風、竜巻などです。
「トビト記」では、ラファエルが魚を使って薬を作り、目が見えない
トビトの目を治療しました。
その為、医学の神、啓蒙の智恵の神、科学の神として信仰されました。
しかし、薬は、使い方を間違えると毒にもなります。
使用上の注意が必要なわけです。
ヘルメスは、もともとは、黄金文明が栄えたトラキア
という国で信仰された神様だそうです。
現在のブルガリア、ギリシャ、トルコにまたがる場所です。
黄金文明の栄えた国
の神様なので、「金」と、とても深い関係にありそうです。
ギリシャでは、ヘルメスと呼ばれますが、ローマでは、「水銀」という意味のメリクリウス
と呼ばれます。
「金」は、もっとも錆びない金属で、「不老不死」を表すと言います。
反対に、「水銀」は、あらゆる生き物を「死」に到らせる猛毒です。
どんな植物も、枯らしてしまいます。
まったく正反対の二つの性質を持ち合せている
ということになります。「水銀」から「不老不死」の薬を作り出そうと異質のものを結び付けて化学変化を起こす錬金術(れんきんじゅつ)と、異質の文化を交易によって結び付けるヘルメスが同一視されるようになったようです。
シルクロードの交易も異質の文化を結び付けるもので、ヘルメスは日本のお稲荷さんに当たるようです。
現在、「トビト記」はユダヤ教では「外典」として、カトリックと正教会では「第二正典」とされ、プロテスタントでは
聖書ではなく「文学」として取り扱っています。
その理由は、ユダヤ人のバビロン捕因の時代に書かれたものなので、「異教の神」の可能性が
強いということです。
話をモーセに戻しまして、
エジプトを脱出したイスラエルの民は、食料が尽きて飢餓に襲われます。
モーセは杖を使って、「マナ」という食べ物を出して民に与えたと言われます。
そして、カナンの地に戻る途中に
モーセが神様から「十戒」を授かったり、イスラエルの民が「金の牡牛」を拝んで「十戎」の契約を破ったり、いろいろあって月日が経ち、カナンの地にたどり着く前に、途中でモーセが亡くなってしまいます。
今度は、モーセの後を継いだヨシュアが、イスラエルの民を率いてカナンを目指します。
この「ヨシュア」という人物は「知恵の樹」である「葡萄」を象徴するエフライム族で、モーセがカナンの偵察にユダ族の「カレブ」と共に送り込んだ人物です。
カナンを偵察して来た二人は「葡萄」を担いで戻ってきてカナンが素晴らしい土地だと報告します。(民数記14章5節~9節)
カナンは「乳と蜜の流れる地」と表現されます。
荒野で育つ羊や山羊は「乳」の出が悪いのですが、餌である植物が豊富にあるカナンでは「乳」が流れるように出て、「蜜」は蜂が集める花の「蜜」を想像しますが、果物の「蜜」を含む植物全般を指すようです。
一般的には、「蜜」は「葡萄」と「ナツメヤシ」の「蜜」を象徴していると言われます。
このイスラエルの民が、約束の地カナンへ入るまでの経緯を記載したのが、旧約聖書の「申命記」と、「ヨシュア記」です。
「申命記」は、モーセの著書とされ、「ヨシュア記」は、ヨシュアの記と言われていますが、最後の数節は、他者によって加えられているという見方が一般的だそうです。
それで、この内容なんですが、とても過激なわけです。
イスラエルの民が、カナンを離れて、すでに長い年月が経ち、そこには多くの異民族が定住していました。
申命記によると、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の7つの民です。
このカナンの7つの民はノアが「葡萄酒」(ワイン)に酔って醜態をさらしてしまい、それを見た息子のハムが他の兄弟(セムとヤペテ)に知らせた事でノアの怒りを買い、ハムの子カナンの子孫が呪いを受けると宣言され、その子孫達がバベルの塔の崩壊の後、この土地にやって来て定住していたようです。
ノアに醜態をさらさせてしまった「葡萄」=「知恵の樹」はカナン(フェニキア)のシンボルで、フェニキア人を通じてギリシャに伝わり、ヨーロッパに広まりました。
失楽園で「智恵の実」(葡萄)を食べる事をイヴに勧めた「蛇」はヒッタイト人で、ヒッタイト人の居たアナトリア半島(トルコ)も「葡萄」の産地として有名です。トルコにあった古代都市エフェソスのアルテミス神殿のアルテミス像は乳房が沢山あってまるで「葡萄」を表しているような姿をしていて、体には無数の「龍」が彫られています。
トルコについて
ヨシュアは、武力によってカナンを奪還します。
「十戒」には殺してはならないと書いてありますが、この戦いは「へーレム(聖絶)」として、正当化されます。
あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを
「必ず滅ぼしつくさねばならない
」
彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。 -申命記7:02
日本でも、戦国時代の殺人は当たり前でした。
現代では、考えられないことですが、この当時としては、普通でした。
人類は歴史という経験を通して、それが善くないことだと知ったのです。
聖書というものは、ずっと昔に書かれたものです。
民主主義の法律のように、民意を反映して、法律を変更するということが出来ません。
現代の感覚と、そぐわない記述があっても、聖書
に書かれていることは神様の言葉なので、
そのまま鵜呑みにしてしまう人達が出てきてしまうということです。
プロテスタントの福音主義(聖書のみ、神の権威がある)という考えも、国家と結びついたカトリック教会という権力から人類が切り離されるためには必要だった歴史だと思います。
フランスのユグノー戦争のサン・バルテルミの虐殺(カトリックによってプロテスタントが弾圧される宗教戦争)は、昔、「王妃マルゴ」という映画を見て衝撃を受けました。
やさしい宗教というイメージを持っていたキリスト教が、なんで、こんな結果になるのかと疑問に思いました。
じゃあ、プロテスタントが正しいのかというと、過度な福音絶対主義は間違いを起こす可能性があると思います。
1995年11月4日、テルアビブで、アラブ側との和平を進める平和集会で、イスラエルのラビン首相を殺害した和平反対の敬虔なユダヤ教徒の青年イガル・アミル氏も、判事の前で「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と証言したと言います。
聖書に書かれていることを、何も考えずに自分の主観で実行すると間違いが生じます。
聖書に書かれてあることが全て正しいとしても、人間が間違った解釈をする場合も多いと
思います。
じゃあ、どういう解釈が正しくて、どういう解釈が間違っているのかということが問題になります。
私は、人類に共通の答えは無いと思います。
正しいか、間違っているかという基準は、人間の主観です。
人間の主観は、人間の数だけ存在します。
一人、一人が一つの宇宙の中心的な存在です。
キリスト教を迫害していたユダヤ教徒パウロが、回心して、キリスト教徒になったという話も、善と悪がひっくり返った歴史的な事例です。
善も、悪も、義も、不義も、一つの主観でしかありません。
信仰も同じです。
一人、一人が一つの宇宙の中で、信仰を持っています。
同じ神様を信仰していても、中身が全て同じではありません。
無理に同じでない神様を排除しようとすると、結局、宗教戦争などの悲劇が起こります。
汝の敵を愛せよとキリストは言いました。
自分と180度、違う価値観を、一つの宇宙として認め、歩み寄りをするということが必要なんじゃないかと思います。
パウロの回心の話ですが、
目から鱗のようなものが落ちて回心したというくだりは、ラファエルと何か関係がありそうな感じがします。
見えないものが見えるようになるという意味は、「啓蒙」です。
鱗は、魚、蛇、龍が持っているもので、家紋などで表される時は、正三角形になります。
正三角形の中に目
が書かれる「プロビデンスの目」という図柄があります。
これも、「目から鱗」の「啓蒙」を表しているように思います。
応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)と共に渡来したとされる七姓漢人(しちしょうかんじん)が「鳳凰」を象徴する飛鳥時代の七福神であり、七つの民の筆頭であるヘト人とはヒッタイト人の事で、製鉄の民である物部氏を指すのかもしれません。
阿知使主(あちのおみ)は天武天皇を象徴した人物で、それが高松塚古墳の四神のうち、南の朱雀(鳳凰)の壁画だけが欠けているように藤原氏によって消されてしまい、西の白虎を象徴する西文氏(かわちのふみし)と統合されたのかもしれません。
奈良県の西に位置する朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は白虎のお寺でありながら北を守護する毘沙門天(天武天皇)を祀っています。
朝護孫子寺の名は、藤原氏の血を引く醍醐天皇(だいごてんのう)が「朝廷を子々孫々まで守る」という意味で勅号を与えたとされますが、天武天皇を意識して孫子(そんし)と名付けたのだと思います。
孫子(そんし)とは斉(せい)という国の武将の尊称で、正式には孫武(そんぶ)と言い、太公望(たいこうぼう)の後に出て来た兵法家になります。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)が編集して「孫子の兵法書」が出来上がります。
私は魏の文帝の末裔を称する高向玄理(たかむこのくろまろ)とは天武天皇の事ではないかと思います。
魏は女王卑弥呼に金印や、銅鏡を贈り、当時、最も力を持った同盟国になります。
阿知使主(あちのおみ)が後漢の霊帝の末裔だと言われるのは、阿知使主(あちのおみ)が連れて来たとされる王仁吉師(わにきし)が皇極天皇の事で、前漢の高祖の末裔だとされている事で、繋がりを持たす為だと思われます。
後漢の霊帝は酒と女に溺れ、政治を混乱させて漢を終わらす原因を作った人物でもあり、そこから黄巾の乱(こうきんのらん)が起こり、三国志へと突入します。
太公望(たいこうぼう)は六韜三略(りくとうさんりゃく)の兵法書を書いた人物で、藤原鎌足が尊敬していたと言われ、恵比寿さんのモデルと思われます。
西文氏(かわちのふみし)は皇極天皇に当たるようで、神功皇后=木花咲耶姫=王仁吉師(前漢高祖)とは皇極天皇を神格化した架空の人物だと思われます。
東漢氏(やまとのあやし)は天武天皇に当たるようで、神武天皇=瓊瓊杵尊=阿知使主(後漢霊帝)とは元々は天武天皇を神格化した架空の人物だったと思われます。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の夫婦の関係は、天武天皇と皇極天皇の親子の関係と同じく一心同体を表します。
七夕(たなばた)には木花咲耶姫が棚機津女(たなばたつめ)となり、神の子供を身籠るために機(はた)を織り、神様へのお供え物を置く「棚」(たな)=「神棚」(かみだな)にその「布」(絹)を置きました。
京都の京田辺市にある棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)は湿度から蚕を守る「棚」(たな)のある「倉」を指す神社で、「孫」(ひこ)は「織姫」(おりひめ)=(皇極天皇)と対をなす「彦星」(ひこぼし)(孫星)の事で、天武天皇を表します。
棚倉孫神社のご祭神の高倉下命(たかくらじのみこと)は神武天皇に建御雷神(たけみかづちのかみ)が霊剣「布都御魂」(ふつのみたま)を授けるために遣わした神様です。
神武天皇は天武天皇で、建御雷神は藤原氏の祖神で、「布都御魂」(ふつのみたま)は経津主神(ふつぬしのかみ)で蘇我倉山田石川麻呂を表し、高倉下命は、天武天皇、藤原氏、蘇我倉山田石川麻呂を一つに纏めた神様のようです。
蘇我倉山田石川麻呂の血を引き、天武天皇の子の草壁皇子に嫁いだ元明天皇(げんめいてんのう)や、その子供である元正天皇(げんしょうてんのう)を指します。
桓武天皇が誕生して以降、皇室には、藤原氏の血を通して女系として天武天皇の血が加わる形となり、奥州安倍氏が生まれます。
「七夕」(たなばた)が語源の「棚から牡丹餅」(たなからぼたもち)=「棚ぼた」(たなぼた)のことわざは、思いがけない幸運を手に入れる意味ですが、「棚」=天武天皇と「牡丹餅」=推古天皇の両方を手に入れた藤原氏を指す庶民の隠語だったようです。
牡丹の話
藤を飾る「藤棚」(ふじだな)も、藤原氏の土台となる天武天皇を指し、當麻寺(たいまでら)の中将姫(ちゅうじょうひめ)の織った「五色の短冊」(當麻曼荼羅)=極楽浄土(天国)を表します。
五色は「黒」(紫)、「青」(緑)、「赤」、「白」、「黄」の色を指し、「絹」の光沢=「五芒星」=「天の川」を意味します。
背中を掻く「孫の手」(まごのて)の「孫」(まご)は元々は中国の八洞神仙(はちどうしんせん)の「麻姑」(まこ)=推古天皇であり、その手が鳥のように爪が伸びていたことから背中を掻くのにちょうど良いとされたもので、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の「朝」(あさ)には當麻寺の「麻」(あさ)の意味も含まれているようです。
「麻紋」は「六芒星」で、大酒神社(おおさけじんじゃ)の「ダビデの星」を意味します。
大阪府の河内(かわち)は「河内葡萄」の産地であり、柏原(かしわら)は天武天皇を滅ぼした桓武天皇(かんむてんのう)の別名になります。
酉陽雑俎(ゆうようざっそ)や、藝文類聚(げいもんるいじゅう)、全三国文などの書物によると、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)=文帝が果物について語っていて、「橘」(たちばな)は酸っぱくて嫌いだが、「梨」(なし)は甘く、「葡萄」は全ての果物の中で一番美味しいと絶賛しています。
日本に「橘」を持ち帰った田道間守(たじまもり)は天武天皇の事で、白い「甲州葡萄」の産地の山梨県の国造りをした沙穂彦(さほひこ)もまた、天武天皇の別名になります。
奈良の平群(へぐり)の梨本(なしもと)には「楢本神社」(ならもとじんじゃ)があり、菊理姫(きくりひめ)=推古天皇(すいこてんのう)が祭られていますが、平群(へぐり)という土地は長屋王(天武天皇の孫)のお墓があり、天武天皇の土地でもあります。
楢(なら)はワインを入れる樽(たる)の材料です。
よく混同される木に「下駄」(げた)の材料とされる「樫」(かし)がありますが、「樫」(かし)は「橿」(かし)であり、橿原神宮(かしはらじんぐう)の神武天皇(じんむてんのう)を意味する木です。
おそらく、神武天皇は天武天皇を象徴する天皇だったのかもしれませんが、それが「梶」(かじ)になり、諏訪大社(すわたいしゃ)の建御名方神(たけみなかたのかみ)として名前が変わっていったのだと思われます。
これは想像になりますが、「葡萄」は飛鳥時代に既に天武天皇を通じて日本に伝わっていた可能性もあるのではないかと思います。
奈良の明日香村にある酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は何の為の遺跡なのかは謎とされますが、私は「葡萄酒」を作る為の遺跡だったのではないかと思います。
山梨県甲州市の柏尾山(かしおさん)にある大善寺(だいぜんじ)は養老二年に行基(ぎょうき)が甲斐(かい)の国を訪れた時に夢に「葡萄」を手に持った薬師如来(やくしにょらい)が現れた事が始まりだと言われ、法薬として「葡萄」の栽培を村人に教えたとされ、それが現在の「葡萄」の産地へと繋がります。
奈良の新薬師寺でも眼病平癒が創建の目的で、「葡萄」に含まれるアントシアニンが「目」の疲れを癒す効果がある事を昔の人は知っていたのかもしれません。
薬師如来は病気を治すイエス・キリストを象徴する仏様ですが、毘沙門天と共に天武天皇を表しているようです。
おそらく、紫の花が垂れ下がる藤原氏の「藤」は「葡萄」の代わりなのかもしれません。
話がいろいろと飛びましたが、カナンの地を追われた七つの民が、世界各地を経由して、日本に渡来した可能性も、あるかもしれません。
日本の神社の前にある鳥居は、翼を広げたフェニックスの姿に重なります。
不死鳥のように燃え上がるその美しい姿は、日本人の心の中で今も生き続けているような、そんな気がします。