やっしーの休憩室
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世界中で、宗教やイデオロギーの対立から戦争という悲劇が起こっています。
この戦争を解決する鍵が、どこかに無いものかと考えてしまいます。
華厳(けごん)という思想があります。
仏教の思想の一つで、小さな微塵の中にも無限の全てのものが存在するという「一即多」(いちそくた)「多即一」(たそくいち)と言われる宇宙のような広がりをみせる
思想
です。
『華厳経』(けごんきょう)の説く、「蓮華蔵世界」(れんげぞうせかい)の世界観は、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念で図形の部分と全体が自己相似になっている「フラクタル」と呼ばれる世界観とよく似ています。
フラクタルの図形
曼荼羅(マンダラ)のような鏡の世界です。
奈良の東大寺の大仏は、その姿を具現化したもので、蓮弁に刻まれた仏形の線刻画や、光背に配置されている16体の小さな仏の形像は化仏(けぶつ)と呼ばれます。
化仏とは、仏や菩薩が衆生を救うため、その機根に応じて現れる仏や菩薩、または、明王となった姿を言います。
この考えから、東大寺では仏教でありながら八幡神も、八幡大菩薩として寺内で祀り、日本で初めて神道と仏教が共存共栄したお寺でもあります。
日本で「
本地垂迹
」
(ほんじすいじゃく
)
、つまり
「神は仏の変
化
した姿」だという独自の考え方が生まれ
たのは、この時です。
異質のものを対立させず、壊さずに、それぞれの良さを生かした「おでん」の文化
を築き上げることが出来
ました。
「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)と呼ばれます。
神と仏と、どちらが先かで、この後もめましたが、とりあえず、全てを包み込む華厳と呼ばれる「おでんの汁」が
見つかったのです。
偶像崇拝を禁止する一神教にとっては
仏像などを持つ多神教の世界は認めにくいものだと思いますが、日本では、偶像を持たない神道という宗教が、仏像を持つ仏教という宗教と共存することが出来ました。
これは奇蹟に近いことだと思います。
その後、明治維新の後、天皇を神格化するために「神仏分離」(しんぶつぶんり)が行われましたが、
神と仏は同じものだと
する人々の
意識は
時代を経ても
生き延びました。
反対に、排他的である宗教は日本では根付かなくなりました。
お正月には神社に行って、節分には豆まきをして、お盆にはお墓参りをして、クリスマスにはケーキを食べます。
これは、節操がないとも
言え
ますが、何もかも許した究極の「華厳」の世界だとも言えます。
『華厳経』の母体は、インドで成立しました。
『華厳経
』は、簡略化されて中国に伝えられました。
東晋(とうしん)の仏陀跋陀羅(ぶつだばつだら)は、3万6千
偈を訳して60巻とした「晋経」(しんぎょう)
唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)は、4万5千偈を訳して80巻とした「唐経」(とうぎょう)
般若三蔵(はんにゃさんぞう)が「入法界品」(にゅうほつかいぼん)を訳して40巻とした「貞元経」(ていげんきょう)です。
現在ある『華厳経』は、新疆ウイグル自治区の
于闐(ホータン)において編纂されました。
当時、
于闐(ホータン)は、仏教都市で、西北インドから中央アジアへもたらされた『華厳経』の断片が集められ、それが西域を通って長安、そして健康(南京)に辿り着き、ここで中国語に翻訳されました。
中国には、もともと宇宙的視野から人間を考えようとする
、万物一体の思想である「斉物論」(さいぶつろん)と呼ばれる
荘子(そうじ)の哲学がありました。
この荘子の「斉物論」の思想と、インド的思惟の『華厳経』の思想とが
結びついたのが、中国の華厳宗です。
荘子の「斉物論」を見ると、是非の対立を言葉や論争において行うならば、対立は、更なる対立を生み、無限に闘争
が続き、精神は消耗するのみだと言います。
是非をあげつらうことを辞め、議論や争いによる解決を捨てて、「
天倪」(てんげい)にまかせるなら、理想の世界が開けると説かれます。
「天倪」(てんげい)とは、絶対的な一を言い、生と死、可と不可、是と非の対立も、互いに相因り、相待って成立する相対的な概念に他ならず、一切の矛盾の対立こそ、ありのままの実相の世界だと言います。
荘子は彼と此というような、自他が対立するものを失くした境地を「道枢」(どうすう)と呼び、万物斉同(ばんぶつせいどう)な実在の真相を知る叡智だとします。
大もまた小であり、長もまた短なのであります。
通常、1+1=2と教えられる為、1が2に変わったと考えがちですが、1と1を足しても2になることはなく、1が二つ集まったに過ぎません。
その対立する集まったものが無数に増えていくと宇宙
に
なるというわけです。
そして、その1は、反対に分けていくと、無限の可能性の2、3、4、5、6…を含んでいると言うわけです。
現在、ミクロの単位で素粒子というものが見つかっていますが、それよりも、更に小さい単位のものが発見される可能性もあるかもしれません。
自然というものは、とても大きく、人間というのは、とても小さな存在なのです。
また、『華厳経』では、天国も地獄も、人間の心が作り出したものだと言います。
比喩の話で天国と地獄とは何処が違うかと言うと、どちらも同じように円卓につき、ごちそうが並んでいるが、地獄の人達は椅子に座り、左手
と体は椅子に縛られていて、右手だけに長いスプーンが結び付けられてい
ます。
ごちそうを
食べようと思っても長いスプーンなので遠くのごちそうしか届かず、自分の口に持って来ようとしてもうまくい
きません
。
うまくいかないことに苛立って、
地獄では怒鳴り合い、喧嘩が始まります。
ところが、天国では、まったく同じ場面
です
が、こちら側のA君は、円卓の向かいのB君に長いスプーンで、ごちそう入れて食べさせてあげて、向かいのB君も長いスプーンでA君に
食べさせてあげて、喧嘩どころか、みんな楽しく
食事を
してい
ま
す。
つまり、相手を想う心次第で、世界は、
天国にも地獄にもなるということです。
この相手を想う心をキリスト教では「隣人愛」と呼び、日本人は
八幡神の「鏡」
で表しました。
我々は宇宙の外、仏の外に存在するのではなく、宇宙の一部であり、仏の一部であり、宇宙そのものだということです。
小乗仏教の人達は仏になるために長い無限の時間の修行をします。
ところが、『華厳経』は初発心(仏道を求めようと思い立つこと)の時が正覚(悟り)だと革命的なことを言いました。
葉から落ちる一滴の雫の中にも、全宇宙
が宿っているということです。
(華厳の思想 鎌田茂雄 講談社学術文庫 がおすすめです
)