やっしーの休憩室
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「禅」(ぜん)の教義を表す言葉に「不立文字」(ふりゅうもんじ)というものがあります。
師の心を「文字」(言葉)を立てずに弟子に伝えていくというもので、「言葉」では真理は悟れず、「言葉」の中に真理は無いというものです。
私は、これは凄い思想だと思います。
それまでの仏教は経典という「言葉」で真理が語られていたもので、ただでさえ難解な哲学的な思想を、その「言葉」まで捨ててしまったら、逆に真意を伝えにくくなりそうで心配になります。
しかし、何故、「言葉」や「文字」を捨てる必要があったのかその経緯が気になります。
ここから少しキリスト教について考えてみたいと思います。
聖書は神様と人間の契約を書いた「言葉」の教えですが、「言葉」とは人間の「解釈」で時として、違う方向へ向かう事があります。
田中角栄が建築基準法で建造物の高さは31mまでと決まっていた日本で、高さ333mの東京タワーを建てるのに法律を変えるのではなく、東京タワーを「建造物」ではなく「広告塔」だと「解釈」の方を変えて実行しました。
それからは、それが日本のお家芸になり、戦後、ドイツでは憲法改正を58回も行っているのに、日本は憲法をまったく変えず、「解釈」の方を変える事で現実問題に対応させて来ました。
つまり、「東京タワー」という「言葉」に「建造物」という意味を充てるのか「広告塔」の意味を充てるのかで内容が180度変わるという事です。
聖書の律法も同じで、例えば「安息日」にどういう意味を充てるかで内容が180度変わります。
マルコの福音書2章23節で「安息日」にイエス様の弟子達が麦の穂を摘んで手でほぐして実を食べて飢えを凌いでいました。
これを見つけたファリサイ派のユダヤ人が律法違反だと騒ぎ立てます。
麦の穂を摘む行為は仕事に当たり、出エジプト記20章8節の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という十戒の掟を破る行為だと主張したわけです。
民数記15章32節~36節には安息日に焚き木を集めていた男が、十戒の掟を破ったという事でみんなから石で撃ち殺されたことが記されています。
ところがイエス様はサムエル記21章6節に書かれてある律法において祭司しか食べてはいけない供えのパンをダビデが食べた事を引用し、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えた時、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか?」と返し、「安息日は人の為にあるのであって、人が安息日の為にあるのではない」と主張しました。
ユダヤ人の王ダビデを引き合いに出された事で何も言い返せなかったわけです。
「安息日」を、「神様との厳格な掟」という意味を充てるか「神様から人への賜物」という意味を充てるかで180度意味が変わるわけです。
「安息日」に禁じられた仕事の事をメラハーと呼びタルムードには39種類の仕事が禁止されるものとして規定されています。
火を焚く事も仕事とされ、そこから電気の使用も控えるという厳格なユダヤ教徒の方もおられるそうです。
現在では命が危険な場合は「安息日」を破ってもいいとされますが、当時は医療行為も行ってはいけないとなっていました。
聖書の「言葉」を杓子定規に守ろうとするファリサイ派の律法学者を、イエス様が聖書の色々な箇所の「言葉」を例にとって反論していきます。
イエス様はそういった意味で類い稀ない「言葉」の天才で卓越した頭脳を持たれていた方だと私は思います。
聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」と二つあるのをご存知だと思います。
でも、この「旧約聖書」の「旧」(きゅう)=「古い」という「言葉」はキリスト教が作ったもので、ユダヤ教では「古い」とは思っていないので「タナハ」(TNK)と呼びます。
トーラー(律法)の「T」と、ネビーム(預言書)の「N」、そしてケトゥビーム(諸書)の「K」の頭文字を取ったもの「タナハ」です。
これ以外にユダヤ人は「口伝律法」(くでんりっぽう)というものがあります。
「聖書」に書かれている「神」の「言葉」を理解する為に、その意味を細かく規定したものが必要だという事で、ユダヤ人の律法学者は「解釈」(ミシュナー)と「注釈」(ゲマラ)を加えた「口伝律法」というものを作りました。
しかし、「言葉」というものは規定をすると、どんどんと主旨から外れていく傾向があるのと、規定をする人間の都合で真意が曲げられてしまう可能性が生じます。
イエス様はこの律法学者の「口伝律法」に反対し、「聖書」の「言葉」を「隣人愛」を中心とする「解釈」で再構築し「タナハ」(旧約聖書)の「真意」を弟子たちに口頭で伝えました。
弟子たちがイエス・キリストより聞いた「言葉」を纏めて新しい「神様との契約」として成文化(文章化)したのが「新約聖書」です。
ユダヤ人の律法学者が、キリスト教徒が作った「新約聖書」に危機感を感じて対抗する目的で「口伝律法」を成文化したのが「タルムード」(研究)です。
「言葉」と「言葉」の戦いです。
新約聖書でマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が生まれますが、この四つの福音書は「車輪」で表されます。
キリスト教の「教え」を運ぶ車の四つの「車輪」です。
しかし、マルコ、マタイ、ルカが共観福音書と呼ばれ内容が似ているのに対してヨハネだけは思想的、神学的でイエス様を神様だと明言しているのが特徴です。
そして、1543年にヨハネの福音書に影響を受けたマルティン・ルターがプロテスタントを生み、「ユダヤ人と彼らの嘘について」というユダヤ人への憎悪を持つ「言葉」を生みます。
それが、当時の白人社会に影響を与え、ロシアや東欧では「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人の殺戮が日常的に行われるようになります。
ロシアでは共産主義を生み出したマルクスやエンゲルスなどの思想家がユダヤ人であった事からユダヤ人が世界征服を企んでいるという「シオン賢者の議定書」と呼ばれる「言葉」も生まれます。
これは、ロシアの神秘思想家のセルゲイ・ニルスという人物が執筆した「
卑小なるもののうちの偉大——政治的緊急課題としての反キリスト
」という本をタイトルを変えてユダヤ人を貶める為に利用されたのではないかと言われています。
そして、1920年に積極的キリスト教のナチスという怪物が誕生し、ヒットラーが「シオン賢者の議定書」を引用して「我が闘争」という「言葉」を生みます。
そして、ユダヤ人を絶滅させることを目的としたホロコーストへと繋がっていきます。
これは「言葉」が生む危険性を十分表している事象だと思います。
現在の日本のプロテスタントの教会は教派を超えた結束を目指すエキュメニカル派が採用する「自由主義神学」(リベラル)が主流になっています。
「自由主義神学」とは科学的に聖書を分析して、現代の社会の権利である自由な解釈を許そうというもので、グノーシス主義ととてもよく似た内容だと私は思います。
現在、ルーテル、メソジスト、バプテスト、長老派など日本基督教団の約半数が「自由主義神学」だと言われています。
「自由主義神学」とは別にキリスト教原理主義と呼ばれる「聖書派」(福音派)があり、その中に「聖霊派」があります。
「聖書派」は聖書を最高の権威と認め、聖書全体を神様から霊感を受けた誤りのない「言葉」であると信じる立場です。
一部の過激な信者によって聖書の「言葉」をそのまま社会に当てはめて、社会の方を変えようと事件を起こすケースが見られます。
そういう意味で「言葉」というのは解釈によっては、とても危険なものになります。
人間が勝手に本来の意味とは違う意味に捉えてしまう可能性があるからです。
「聖霊派」は「奇跡」が現代でも「聖霊」によって起こるという考えです。
「自由主義神学」における聖書の立場は、人間が纏めたものなので誤りも含むという「部分霊感説」、言葉ではなく意味が重要と考える「概念説」、現在の自然科学では説明出来ない奇跡などの事象は現時点では保留にする「自然主義的霊感説」など、個人によってその見解は分かれます。
聖書では悪魔が聖書の「言葉」を使用してイエス様を試す「荒野の誘惑」(あらののゆうわく)がありますが、「言葉」は解釈を間違えるとこの「悪魔」のように破滅に向かう可能性があるように私は思います。
「神である主を試してはならない」という言葉は、「悪魔」の誘惑を断ち切る言葉ですが、何事も信じて疑うなという事ではなく、神よりも人間は下なのだという謙虚な姿勢が大切だという意味だと私は思います。
人間はイエス様のようにいつも正しい解釈が出来るとは限らないので、私は「聖書派」よりも「自由主義神学」の方に共感を持てます。
「自由主義」を表すリベラルですが、日本では「左派」の言葉のように使用されていますが、本来は「平和主義」で、個人の考えを尊重する立場になります。
「言葉」は時代や国によっても意味が変わる為、内容を一語一句、間違いなく相手に伝える事は至難の業となります。
禅宗が「言葉」に頼らない「不立文字」という考えを持った事はそういった意味で一神教に比べて、とても先進的な意味を持つように思います。
禅宗は中国で唐から宋にかけて発展した仏教の一派ですが、その時代の中国には景教(けいきょう)と呼ばれたキリスト教を信仰する人々がいて、禅宗や浄土教などの大乗仏教の誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は思います。
ベネディクト会の僧侶で、欧米の禅キリスト教運動の指導者であるヴィリギス・イェーガー氏がキリスト教神秘主義と禅の類似性を指摘したように、違う角度から光を当てる事で、同じ角度からでは気付く事が出来ない真理へ至る道筋が、鮮明に浮き上がって来る事を悟られたのだと思います。
ここで、「聖霊」による「奇跡」について考えてみたいと思います。
神様は人智では計り知れない無限の絶対者で、「奇跡」が起こせるのが特徴です。
モーセは海を真っ二つに割ってエジプトを脱出したり、エジプト人に十の災いが起こる事を予言したり、ユダヤ人には神の「ご加護」があり「奇跡」が起こる民族だと信じられていました。
ただし、その「奇跡」はイスラエルの神様との契約を守り続けた場合のみの限定され、他の宗教の神様を信仰した場合には天罰が下るとされました。
ダビデの紋章は「ご加護」を表す「盾」で、イスラエルの国旗に使用される「六芒星」になります。
モーセが渡ったとされる海は「紅海」(こうかい)だと言われていますが、ヘブライ語の聖書では「葦の海」(あしのうみ)の「Yam(海) Suph(葦)」(ヤム・スフ)と書かれていて、これがギリシャ語に訳される時に誤訳で「紅海」になったようです。
英語でも「reed(葦) see(海)」と「red(赤い) see(海)」は「e」が一つ足らないだけで、どちらもよく似ています。
「葦の海」がいったい何処だったのかは現在も分かっていないようです。
モーセが海を二つに割った「奇跡」は、干潮時に海底が露出し道が出来るトンボロ現象の砂州(さす)ではないかと考える研究者もいます。
モーセが海を渡った時に「東風」が吹いたと記されている事から強風で、嵐か何かでより砂州が露出したのだと考えるようです。
しかし、「紅海」は水深が中央部は2300mmもあり、トンボロ現象や強風でどうにかなるような深さではありません。
そこで、ナイル川のデルタ地帯の北東部に位置する地中海と繋がった水深が2mm程の「マンザラ湖」や、「バルダウィール湖」が「葦の海」ではないかと考える研究者もいます。
湿地帯なので淡水で生える「葦」があるのは理にかなっています。
「葦」とはエジプトでは「パピルス」と呼ばれ、紙の原材料となっています。
聖書の「奇跡」を科学的に分析しようという試みで、米国立大気研究センターの研究員カール・ドリュース氏が書いた論文をもとに「マンザラ湖」でコンピューターグラフィックスを使い検証した結果、時速100kmの風を約12時間吹かせる事で約4時間ほどの間、海底が露出したそうです。
つまり、条件が揃えば、モーセが海を割って海底を歩く事が科学的に可能だったという事です。
日本の天橋立(あまのはしだて)の全長3.6kmにもなる松並木の湾口砂州(わんこうさす)は水没する事はありませんが、左右に海が広がるような景色でモーゼの海を割った「奇跡」を思い出させる地形です。
ここの湾口砂州は「東風」によって砂が運ばれ道になったものだとされます。
この土地は元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮の外宮の神様である豊受大神を祀っていたのは「父なる神」を表す為に、この場所が選ばれたのではないかと思います。
この砂州を渡った先に籠神社(このじんじゃ)があり、奥宮に「竹」林の真名井神社(まないじんじゃ)があります。
砂州の道が「松」なのは天智天皇の「龍」を表し、真名井神社の「竹」は天武天皇を表しているので、「龍」と「竹」が合わさり「籠」(こ)になります。
「籠」(こ)は子宝の「子」(こ)であり、異質な両親を統合する象徴になります。
皇極天皇は物部氏系の天智天皇と蘇我氏の残党を率いた天武天皇の両方の母親で、子はどちらの意味も含んでいます。
因みに松竹梅の最後の「梅」は蘇我倉山田石川麻呂の「獅子」を表しますが、菅原道真の「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」のように「風」の意味も含まれます。
「申年の梅」(さるどしのうめ)や、「塩梅」(あんばい)など、蘇我倉山田石川麻呂は、猿田彦大神や塩土老翁神とされる藤原鎌足ともセットにされます。
猿田彦大神を表す天狗が団扇(うちわ)を持って「風」を起こすのも風神だからです。
藤原鎌足と藤原不比等はつい親子だと錯覚してしまうのですが、私は藤原不比等は天智天皇の落し胤(だね)だと思っているので彼の子孫である藤原氏は「松」であり、「龍」である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が本性だという事になります。
「竹」は、かぐや姫の「水神」の市杵島姫命(いちきしまひめ)で、この真名井神社の吉佐宮(よさのみや)で行われた天照大神と素戔嗚尊の誓約で誕生した三位一体の神様とされます。
「松」は「火」と、「竹」は「水」、「梅」は「風」を表すようです。
「三つ巴」の紋は、この三つの「気」が統合される事を意味します。
おそらく、蘇我氏が日本に持ち込もうとしていた仏教はマニ教で、「火」のミトラ、「水」のヴァルナ、「風」のアシュラの三位一体の神が「三つ巴」のルーツなのだと思います。
キリスト教では「火」のミカエル、「水」のガブリエル、「風」のラファエルという天使として取り込まれます。
「気」は元々の漢字は「氣」と書かれ、神道のアニミズム(精霊信仰)の万物に宿る「精霊」を意味します。
「氣」の中身が「米」(マナ)なのは、「米」が人間の「生命の源」という意味が籠められているようです。
京都市南丹市にある摩氣神社(まけじんじゃ)は、ご祭神が推古天皇を意味する
大宜都比売(おおげつひめ)の別名ではないかと言われている
大御饌津彦
(おおみけつひこ)ですが、おそらく天武天皇の事だ思われます。
天武天皇は勝手明神(かってみょうじん)と呼ばれましたが、蘇我倉山田石川麻呂を表す荒神を象徴する台所の出入口の勝手口(かってぐち)を表します。
天皇家の食料を司る氏族としてお稲荷さん(皇極天皇)と習合して高橋氏へと変わっていきます。
「摩氣」(まけ)は「負け」(まけ)で、皇極天皇と天武天皇の母子ペアの白星に「負け」た黒星を意味するのだと思います。
現代は聖書の「奇跡」を科学的に証明しようという色々な試みが行われています。
十の災いはサントリニ島の火山の噴火で酸性雨が降り、プランクトンの大量発生によりナイル川が赤潮で血のように染まり、大量死した魚からハエが湧き、聖書にあるようにカエル、ブヨ、アブ、イナゴなどが大量発生した可能性が指摘されています。
エジプト全土が3日間、暗闇となったのは火山の灰が空を覆ったからで、雹が降ったのも異常気象で火山が原因ではないかと考えられています。
そして、人や家畜などに膿みの出る腫物が出来たのは酸性雨が肌に直接触れたからか、虫を感染源としてペストなどの伝染病が広まったせいではないかと考えられています。
エジプト人の長子がみんな死に絶えたというのはユダヤ人はカシュルートで食べるものがエジプト人と違っていたので伝染病の感染を免れたのかもしれないと推測されています。
そして、モーセがエジプトを脱出する切っ掛けとなったホレブの山で出会ったいつまでも燃え尽きない「燃える柴」の正体ですが、中東では珍しくない天然ガスが地表に漏れていて、そこに何かしらの原因で発火したものではないかと推測を立てる研究者もいます。
そして、その「柴」の正体は荒野に生息する「アカシアの木」の可能性が指摘されています。
何故なら、モーセは「アカシアの木」を聖木として、十戒などの三種の神器を入れる「契約の箱」を作らしたからです。
この「アカシアの木」の樹皮からはアヤフアスカというブラジルのアマゾンの麻薬と同じ幻覚作用をもつ薬物が合成出来るそうで、使用した場合、宇宙との一体感や、輪廻の体験や、音を見る感覚など密教の奥義に通じるような神秘的な体験をするそうです。
モーセが聞いたとされる「神の声」はこうした薬物の幻聴の可能性もあるのではないかと思います。
ササン朝ペルシアの王達がゾロアスター教を中心とする宗教文献として聖典としたゼンド・アヴェスタでは「大麻は幸福の源である」と書かれていて、大麻を吸引する事で幻覚を見て未来を占ったり、麻酔薬や解毒剤として治療に用いたりしました。
ペルシアのゾロアスター教の祭司を「マギ」と呼びましたが、「魔術」を使うという意味でこれが「マジック」の語源となり、現代の「手品」へと繋がっています。
日本の推古天皇が「麻」とは深い繋がりがあり、神道では神の依り代として「ぬさ」と呼び、ペルシアから中国を経由して日本に伝わったものと思われます。
日本では神の「ご加護」を表す「六芒星」に「麻紋」を充てたりしています。
ダビデを意味する「大闢」(だいびゃく)は日本では秦河勝の大避神社(おおさけじんじゃ)の「大避」(おおさけ)と書かれ「お酒」を表します。
「お酒」も麻薬の一種で、症状が軽いか重いか、依存性が高いか低いかの違いだけです。
「葡萄酒」はイエス様の「血」を表していて「罪の贖い」(つみのあがない)を意味しています。
神道では、「葡萄酒」の代わりに「日本酒」を生み出したようです。
「大麻」を吸引すると脳の「松果体」(しょうかたい)からメラトニンという成分が分泌され、多幸感を得ます。
通常は朝日を浴びた時に、この「松果体」が光を感じメラトニンを分泌して清々しい気持ちになります。
「麻」(あさ)と「朝」(あさ)は同じというわけです。
この「松果体」が「第三の目」と言われるもので死ぬ時に苦痛から解放する目的で大量に麻薬成分を分泌します。
本人は光に包まれている感覚を受け、お花畑を歩いているような感覚を受け、それが臨死体験になっているようです。
脳には爬虫類と同じ「脳幹」、哺乳類と同じ「大脳辺縁系」、そして、人間だけが持つ「大脳新皮質」の三層で出来ていて「松果体」は最も原始的な「脳幹」の中央部にあり、体の神経と脳を繋ぐ役割があります。
胎児の過程では進化の過程をなぞるように「松果体」と「脳幹」から順番に作られていき、胎児はお腹の中で宇宙と一体になっている感じを経験していると言われます。
人間は爬虫類と違い、「大脳新皮質」が発達した為に「松果体」は退化してしまっているようですが、ヨガなどの訓練によって「松果体」を活性化させると宇宙との一体感を感じ、悟りの境地を感じる事が出来るようです。
一般的に苦行僧が行う断食によって脳内からは脳内モルヒネとも言われる
β-エンドルフィン
という成分が放出される事が分かっています。
この三層の脳の一番外側の「大脳新皮質」ですが、右脳側がその下の「大脳辺縁系」と繋がっているらしく、イタコや預言者が右脳が活動するのは「松果体」で受けたイメージを処理しているからかもしれません。
この「松果体」ですが、哺乳類では「羊」が最も発達しているそうです。
「羊」が群れを好み、仲間意識が強いのはこの「松果体」によるものかもしれないという事です。
仲間意識=隣人愛だとすると、イエス様を「神の子羊」と形容する事は的を得ているというわけです。
事実は分かりませんが、我々、現代人は、科学的に説明されると妙に納得させられますが、当時はそれを理解出来る知識も人類にはなかったので、未知なるものは全て神様の起こしたもので、天災は神様の怒りに触れたのに違いないと考えたのかもしれません。
新約聖書にもイエス様が行った数多くの「奇跡」が書かれています。
盲目の人の目を治したり、喋れない人を喋れるようにしたりは、医学の知識があればある程度は可能だと思えるのですが、水瓶の水を葡萄酒に変えたり、5つのパンと2匹の魚を増やして5千人に食べさせたり、ガラリヤ湖の水の上を歩いたといった「奇跡」については、どう考えたらいいのか迷います。
「手品」と考える方もおられるようですが、それではあまりにも短絡的すぎるように感じます。
水を葡萄酒に変えた「奇跡」は「カナの婚礼」と呼ばれ、マルコにもマタイにもルカにも記されていないヨハネだけが伝える「奇跡」です。
ヨハネの福音書ではイエス様が行った「奇跡」は大きく分けて「七つのしるし」として、「カナの婚礼」はその最初に行われた「奇跡」として重要な意味を持つようです。
内容はカナで行われた婚礼で葡萄酒が無くなってしまい、聖母マリアがイエス様の元に相談に行ったところ、六つの水瓶に水を満たして運ぶように言われて、イエス様を信じる聖母マリアが召使い達に言われた通りにするように指示をしたら、水が上質な葡萄酒に変わったというものです。
上質とわざわざ断っているのには理由があると私は思います。
サントリーの「GREEN DA・KA・RA やさしい麦茶 濃縮タイプ」のCMの「ダカラちゃんは見た」で、ムギちゃんが水に濃縮した麦茶を注いで水を麦茶に変えるマジックを行いダカラちゃんをビックリさせるシーンがありますが、麦茶を葡萄酒に置き変えると「カナの婚礼」と同じシチュエーションになります。
ヨーロッパでは葡萄酒に水を混ぜる事は当時は普通に行われていて、お金のない労働者はワインビネガーを水で割って飲んでいる人も珍しくなかったようです。
当時の葡萄酒の定義が発酵していない葡萄ジュースも含まれていて、実際にイエス様を救世主と認めるユダヤ教徒のメシアニック・ジュ―の過越し祭りでは葡萄酒を水で割って飲むのが普通とされています。
現代の日本の安いワインのほとんども濃縮果汁を水で割って後から発酵させたもののようです。
「カナの婚礼」で上質の葡萄酒と断る理由は、そういった安物の葡萄酒ではなく、本当の「奇跡」なのだとヨハネは伝えたかったようです。
この物語りを文字通りに信じるなら、水を葡萄酒に変えれるイエス様は神様としか考えられません。
しかし、これを「手品」か何かだと考えるならイエス様は自分を神様と思わせる為に「手品」を行った確信犯的な詐欺師になってしまいます。
「カナの婚礼」がヨハネの創作ではなく、実際にあった出来事ならば、聖母マリアが困っていた時にイエス様が仮に水に濃い葡萄酒を足して量を増やしたとしても、窮地を救ったわけで別に詐欺師にはなりません。
「奇跡」と言うから話がややこしくなります。
私はイエス様はロバに乗ってエルサレムに入場したように「奇跡」を前面に押し出すような強者の救世主ではなく、困っている弱者を助ける「普通」の救世主なのだと思います。
そして、「普通」である事が本当の「奇跡」なんだと私は思います。
イエス様を強者にしようとしていたのはヨハネであり、それを支柱に添えた当時のカトリックで、異議を唱える者を次々と弾圧し、迫害しました。
イエス様の教えの真逆に進んだわけです。
ドイツの新約聖書学者のルドルフ・カール・ブルトマンは、この「カナの婚礼」はギリシャに「宣教」(ケリュグマ)するためにヨハネが書いた神話であり、イエス様が本当に行った史実ではないと考えました。
そして、聖書の中に書かれるイエス様の「奇跡」の神話を取り除いて考える「非神話化」を唱えました。
ギリシャというのは「哲学」が有名な土地で、「信じる」キリスト教に対して「疑う」ギリシャと「奇跡」に対して一番懐疑的な土地になります。
しかも、「カナ」という土地はヘブライ語で「葦」(あし)という意味になります。
「葦」はとても「弱い」植物ですが、「人間は考える葦である」と言ったキリスト教神学者であり、哲学者であるパスカルにも通じる土地になります。
ギリシャ人は懐疑的であると同時に、多神教でオリンポスの神々を信仰する人々もいました。
もし、布教を考えるなら、そういったオリンポスの神々に代わる神様にイエス様がなるように説得しなければならないわけです。
ギリシャ神話の葡萄酒の神デュオニュソス(バッカス)が水を葡萄酒に変える力を持っていた事と、デュオニュソスが全知全能の神「ゼウス」と月を象徴する人間の「セメレー」の子供で、「父なる神」と人間である「聖母マリア」の子供であるイエス様をギリシャ人に分かりやすく説く為に、立場の似ているデュオニュソスに重ねたのではないかと考えられます。
「ゼウス」の本妻のヘラの策略で、「セメレー」は「ゼウス」に願い事を聞いてくれるか尋ねて、なんでも叶えるという約束を取り付けてから、「ゼウス」の本当の姿を見せて欲しいと申し出て雷に打たれて死んでしまいます。
これは、ヘロデ王の妻となったヘロディアの策略で、娘のサロメはヘロデ王に願い事を聞いてくれるか尋ねて、なんでも叶えるという約束を取り付けてから洗礼者ヨハネの首を欲しいと申し出て洗礼者ヨハネが斬首されて死んでしまった事を連想させます。
デュオニュソスはセメレーの子であり、イエス様は洗礼者ヨハネの後継者とも言える立場だったからです。
また、デュオニュソスは普段は弱い人間の姿をしているのですが、人の善意を「試す神様」で、悪意のある人の前では、強力なと力を発揮する為、「若いゼウス」の異名もありました。
普段は弱々しい姿を取っていても、本当は「ゼウス」と同じ力を持っているという事です。
イエス様が「父なる神」と同じ力を持っていて、「最後の審判」では強力な力を発揮すると説明出来るわけです。
それから、ローマ人はエトルリア人も祖としているのですが、ギリシャ神話にはデュオニュソスがエトルリア人をイルカに変えた神話があり、イルカをシンボルとするキリスト教にとってはまさに好都合の対象と言えます。
六つの甕と清めの水はダビデを崇拝するユダヤ人を指し、葡萄酒はイエス様の恵みの意味も含ませているようです。
日本の神話では、この焼けて死んだ「セメレー」が伊弉冉命(いざなみのみこと)であり、焼いた「火」である迦具土神(かぐつちのかみ)が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)によって切られて八人の神様が生まれ、これが八幡神を表します。
迦具土神(かぐつちのかみ)が天皇家の八王子を生んだ蘇我倉山田石川麻呂(八咫烏)の事で、デュオニュソスはイエス様ではなく八幡神(やはたしん)で、「試す神様」は牛頭天王(ごずてんのう)になります。
牛頭天王は素戔嗚尊の事だと言われますが、実際は後継者となった大国主命の事で、兄である貧乏神の蘇民将来(そみんしょうらい)と弟である富裕神の古単将来(こたんしょうらい)を試して、古単将来を疫病で滅ぼします。
牛頭天王は八王子の中心人物である蘇我倉山田石川麻呂を指し、蘇民将来は蘇我氏、古単将来は秦氏を意味します。
試す内容は他人に対しての思いやりの心の「仁」(じん)で、旧約聖書の出エジプト記の過越し祭をモデルにしているようですが、滅ぼされる方が多神教の神道である物部氏ではなく、一神教のキリスト教の秦氏の方だという点が真逆になります。
八王子は神仏習合の八幡神であり、「仁」は「隣人愛」を要(かなめ)とするようです。
古代キリスト教の神学者アウグスティヌスは、一般的な民衆には「カナの婚礼」を文字通り「信じる」事で「恵み」がもたらされると「奇跡」を強調し、懐疑的な哲学者に対しては「カナの婚礼」の「奇跡」は象徴的な例えなので、その「言葉」に隠されている意味を読み取らないといけないと説いたのかもしれません。
本来はイエス様が伝えたかったのは「奇跡」ではなく「隣人愛」で、「神」か「人」かはどちらでも良かったのだと私は思います。
パウロはコリント人への第一の手紙で「しるし」(奇跡)には明確な役割があり、その役割とはイエス様の「言葉」(福音)を広めて人々を救う事だと書かれています。
「奇跡」は目的ではなく、単なる手段に過ぎないというわけです。
つまり、「奇跡」だけを信じて「隣人愛」に反する行為をするのは本末転倒だということです。
パンと魚の奇跡の教会 床のモザイク
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「言葉」を象徴的な意味として解釈するなら、「5つのパンと2匹の魚」を増やして5千人に食べさせた「奇跡」に関しては、「5つのパン」がイエス様の五体を表し、「2匹の魚」がイエス様の弟子である宣教師を指していると考える方もおられます。
文字通り、「5つのパンと2匹の魚」を5千人に食べさせれるだけの量の食料に増やしたのであれば、ペテロの網に大量の魚を獲らせた「153匹の魚」の時の「奇跡」のように正確な数を記入するはずです。
数が記入されていないのは、弟子達が持っている食糧を全て出させてみんなで少ない食料を分け合って食べ、民衆は感謝をして精神的に満腹になったという例えだと私は思います。
実際に当時、聖書に書かれていた二つの「魚」のギリシャ語が「5つのパンと2匹の魚」の場合は「オプサリオン」という「言葉」が使用され、「153匹の魚」の場合は「イクトゥス」という「言葉」が使われていたようです。
一般的な「魚」は「イクトゥス」の方で、「オプサリオン」はパンと共に食べる「調理された魚」=「肉」の意味があり、旧約聖書の民数記11章に出てくるモーセに率いられた民衆が「マナ」(米)ばかり食べていて「肉」を食べたいと感謝を忘れて不平を言った時に使用されている「言葉」になります。
つまり、「5つのパンと2匹の魚」の「奇跡」は民衆を「満足」させたという事で、イエス様がモーセより権威がある事を主張する目的で民数記で使用された「オプサリオン」の「言葉」が選ばれた可能性があるようです。
普通である事が実は「奇跡」なのに、人はそれだけでは「満足」出来ないようで、後世になってイエス様がより神秘的な力を持つように装飾されたようです。
この「奇跡」が示されたガリラヤ湖畔に現在、「パンと魚の奇跡の教会」が建てられていますが、一部のユダヤ人によって放火されたりした事件があったようです。
私は信仰は自由だと思っているので、何を「奇跡」と感じるかも人それぞれですが、他宗教の信仰対象を破壊する行為は許される事ではないと思います。
日本人が「鰯の頭も信心から」と「小さな魚」である「鰯」(いわし)を「奇跡」に充てたのは、この「オプサリオン」に「小さな魚」の意味もあるからだと思われます。
人間に食料を与えようとしたギリシャ神話の神様にプロメテウスがいます。
オリンポス12神族のゼウスよりも古い巨人のティターン族の神様です。
プロメテウスが土から人形を作り、それにゼウスが息を吹き込んで人間が誕生した人間の生みの親です。
彼は冬に凍える人間を哀れに思い「火」を与えた為にゼウスの怒りをかってコーカサス山脈の山頂に磔になり、鷲に内臓を啄まれる苦しみを与えられました。
十字架にかけられたイエス様を連想させられます。
このコーカサス地方で最も力を持っていたのがハザール人でアシュケナジー系のユダヤ人の一部の人々です。
アシュケナジー系ユダヤ人は核兵器を生み出した天才科学者のアインシュタインなど、頭脳明晰な人物が多くいます。
人類に「火」を与えた報復にゼウスは人類最初の女性パンドラを作り、あらゆる災いが入った「パンドラの箱」を持たせ、プロメテウスの弟のエピメテウスに嫁がせます。
この二人は人類最初のカップルであるアダムとイヴに相当します。
絶対に開けては駄目だという「パンドラの箱」は「ピトス」と呼ばれ「甕」(かめ)を意味しますが「六芒星」(ユダヤ教)を意味するようです。
結局、パンドラは誘惑に負けて箱を開けてしまい、あらゆる厄災が飛び出すのですが、唯一、「エルピス」という「希望」も箱の中に含まれていたようで、「水瓶」(甕)の中身である水を葡萄酒へと変えた「カナの婚礼」の「奇跡」を連想させます。
このゼウスという新しい神様に滅ぼされるプロメテウスという古い神様は、「鷲」(ペルシア)に食べられる「蛇」(バビロン)を意味し、新しい神様から地獄に落とされる神様です。
人間に「知恵」を与えて地獄に落とされた「蛇」と同じです。
そして、この「5つのパンと2匹の魚」の「奇跡」の後に、イエス様は弟子達を舟に乗せてガリラヤ湖を渡らせます。
しかし、逆風で舟は中々、進まず、夜明け前にイエス様が湖の上を歩いて弟子達に近付いてくるという「奇跡」を見せます。
この件も、実際は氷の上を歩いたとか、地上を歩いていたのだけど波が高くて地面が見えず、湖の上を歩いているように見えたとか色々と科学的に考えようとされています。
しかし、これも実話ではなく、「宣教」の為の神話だと考えるならどうゆう意味があるのでしょうか?
水の上を歩く事が出来る能力を持つギリシャ神話の神様にポセイドンの息子の漁師オリオンがいます。
あの、冬に南の空で「砂時計」のような形で輝くオリオン座のオリオンです。
エジプトではホルスの父親でキリスト教の「父なる神」に該当するオシリスがオリオン座と思われていました。
イザヤ書41章10節に全知全能の「父なる神」が「ユダヤ人」に対して、「恐れてはならない、私はあなたと共にいる」「驚いてはならない、私はあなたの神である」「私はあなたを強くし、あなたを助け、我が勝利の右の手をもって、あなたを支える」という箇所を「父なる神」を「イエス様」に、「ユダヤ人」を「キリスト教徒」に置き換える為にこの「水の上を歩く奇跡」の項が設けられたのだと私は思います。
マタイの福音書14章31節ではペテロが同じように水の上を歩こうとして溺れるシーンがあり、イエス様から「信仰の薄い者よ、何故、疑ったのか?」と諭されます。
疑う事が「奇跡」の起きない理由だとギリシャ人に伝える目的があったのかもしれません。
キリスト教のイエス様の誕生を知らせる「ベツレヘムの星」は「八芒星」であり、おおいぬ座の「シリウス」の事だと言われています。
クリスマスツリーの頂上に飾る「星」は「ベツレヘムの星」だと言われます。
「シリウス」はエジプト神話では「水の上の星」を意味するソティスと呼ばれる豊穣神の星で、イシスと習合する女神になります。
ソティスは元々はマグダラのマリア(ハトホル)で、聖母マリア(イシス)と習合するのと似ていて、ヒエログリフでは「△」で表されます。
西洋でクリスマスツリーに常緑のモミの樹が使用されるのはその形状が三角形をしているからだと言われます。
「シリウス」(イシス)と「太陽」(太陽神ラー)が水平線に見える時にナイル川が氾濫し、土地に豊饒という「恵」を与えることから、おそらく、「水の上を歩く奇跡」は「太陽」をイエス様として「シリウス」を聖母マリアとして水の上に輝いた時の「恵み」を象徴しているものと思います。
「オリオン座の三つ星」は、「ベツレヘムの星」を見て、ユダヤ人の王の誕生=「イエス様の誕生」を知らせたカスパール・メルヒオール・バルタザールの「三博士」を意味し、エジプト神話の男神サフで、オシリスに当たります。
このソティスとサフの子供がソプドゥ(ソペド)でホルスに当たり、イエス様を意味します。
「イエス様の誕生」の神話はエジプトの神々の系譜にもイエス様が繋がる事を暗示しているようです。
「シリウス」と「オリオン座の三つ星」が一直線に並ぶのが12月24日のクリスマスイヴで、「三博士」が「シリウス」に導かれた先にあるのが、25日の日の出の「太陽」です。
エジプト神話ではナイル川の氾濫を司るアスワンの守護神がクヌムと呼ばれる「羊」の神様で、土から人間を作り、妻のヘケトと呼ばれる「蛙」の女神が「息」を吹き込んだと言われています。
人間の創造主であるギリシャ神話のプロメテウスを連想させます。
このクヌムの「羊」の角は横に水平に伸びるタイプで、中王国時代には絶滅したとされる山羊に近い家畜です。
ユダヤ人がイサクの代わりに「犠牲」の動物として「羊」を生贄にするのは、このエジプト神話のクヌムとの決別を意味しているのだと私は思います。
エジプト神話の「シリウス」を表すイシスのルーツはアッシリアの「アシュラ」であり、インド神話の「パールバティ」など「三位一体」の女神になります。
キリスト教の「三位一体」は、「父」と「子」と「聖霊」ですが、本来は「母」になる所を抽象的な「聖霊」に置き換えたと私は思います。
そして、よりイエス様を神格化する目的で12月25日が誕生日とされるミトラ(ミカエル)のシンボルである「太陽」を充てたのだと思います。
ミトラは拝火教(ゾロアスター教)と呼ばれる「火」の神様で洗礼者ヨハネが預言した後から来る救世主は「火」と「聖霊」で洗礼を行うと言った「裁き」の「火」を意味するようです。
ミトラの神話には処女から誕生した話や、死後、3日後に「復活」した話があり、旧約聖書の預言者はこれらの神話から救世主のイメージを作りあげたのかもしれません。
デュオニュソスも同じく処女から誕生して、死後、3日後に「復活」するのでミトラの影響を受けたのかもしれません。
「太陽」の活動は12月22日から24日まで冬至の期間が最も短く、南の水平線の位置で留まるとされ、それ以降は再び空に上がり力を強めます。
これが救世主が亡くなって3日後に「復活」する原型になったとも言われます。
丁度、「太陽」が3日間停留する南の空には「南十字星」が輝いていて十字架を連想させるそうです。
私はイエス様は実在したと思いますが、新約聖書の記述は、ルドルフ・カール・ブルトマンが言うように多少のフィクションを含んでいるものと思います。
それから、キリスト教の中でも一番の「奇跡」はというと死者を蘇らせた「ラザロの復活」が挙げられます。
ギリシャ神話では、医療の神アスクレピオスが死者を蘇らせていた為に、秩序を乱すとゼウスが雷を落としてアスクレピオスを殺します。
「奇跡」を起こした事で処刑されるイエス様と同じです。
ヨハネの福音書の11章11節でイエス様は死んだラザロを「眠っている」と表現し、その「眠っている」ラザロを「起こしに行く」と言われました。
単に「眠っている」と勘違いする弟子達に14節でイエス様が「ラザロは死んだのです」とはっきりと伝えます。
つまり、「起こしに行く」というのは「死者を蘇らせる」という事です。
そんな事は「神の子」以外には絶対に出来ない事です。
25節で「私を信じるものは死んでも生きる」とイエス様が言い、43節で墓の前でイエス様がラザロに「ラザロよ出て来なさい」と声を掛けると、死んだはずのラザロが蘇って出て来たとされます。
これもラザロが麻酔か何かで仮死状態になって言葉通り眠っていただけではないかと考える人もいます。
この物語りの間に挟まれた16節でトマスが「私達もイエス様と一緒に死のう」と意味ありげな発言をします。
迫害を受けたエルサレムに戻るつもりのイエス様をトマスがいかに愛していたかを窺い知る事が出来る発言で、他の弟子達よりもイエス様の為に命を捨ててもいいという気持ちが強かったのだと思います。
オランダのポスト印象派のゴッホはこの「奇跡」を起こすイエス様を偉大な芸術家だと言いました。
「彼は絵も描かず、曲も作らなかったが、死すべきものを不滅なものに変えた」と表現しました。
その死すべきものとは「肉体」ではなく「隣人愛」を指すようです。
ゴッホの作品である「ラザロの復活」はレンブラントの作品の模写ですが、ゴッホは不滅の象徴として「太陽」を付け加えました。
ユダヤ教が「星」(地球)、イスラム教がアナーヒター神(ガブリエル)の「月」なのに対してキリスト教はミトラ神(ミカエル)のシンボルである「太陽」だという事です。
「太陽」は日没で「死」にますが、翌朝には「復活」して再び世界を照らします。
イエス様が十字架にかかったのが13日の金曜日で、「復活」したのが三日目の15日の日曜日で、そこからキリスト教は「太陽」を象徴する日曜日を「祝いの日」として「安息日」と定めます。
「太陽」は植物を始め、あらゆる生命を育む「神様から人への賜物」という意味があるようです。
「太陽」は暗闇という無知を照らす「光」であり、「太陽」が一年間に運行する「十二星座」が「十二使徒」であり、「季節」を表すようです。
ラザロの復活 フィンセント・ファン・ゴッホ
イエス様が行った「ラザロの復活」という最大の「奇跡」は多くの人々を信仰に導きましたが、同時にサンヘドリン(最高法院)など祭司長達から命を狙われる切っ掛けとなりました。
その祭司長達のいるエルサレムにイエス様は向かい捕らえられてしまいます。
ヨハネの福音書の12章24節の死ぬことによって多くの実を結ぶ「一粒の麦」の例えは、死んで蘇る事がメシア(救世主)の証でしたからイエス様の教えを広める為には「死」と「復活」の両方が必要不可欠だったようです。
イエス様が十字架にかけられた時に、その場で「奇跡」が起これば誰の目にも神様だという事が明らかでしたが、その場では何も起きずに死んでしまいます。
「奇跡」を「起こせなかった」と考えるのがラビ的ユダヤ教で、イエスのヘブライ語の「イエシュア」を「イエシュ」(偽物)として、本物の救世主とは認めていません。
3日目に「復活」して弟子達の前に姿を現したという事も信じてはいません。
イスラム教もイエス様はただの一人の預言者に過ぎず救世主ではないという考えになります。
キリスト教徒は「奇跡」を「起こせなかった」のではなく、「起こせる」けれど「起こさなかった」と考えるようです。
人類の罪を被って一度は犠牲になる必要があり、敢えて「人」として死にましたが、その後に「復活」して「神」である事を証明し天に昇られたと考えます。
この、死んで「復活」したという「奇跡」を科学的に考えようとする人達もいます。
スイスの聖書学者のカール・バルトは、十字架にかかって死んだと思われたイエス様が実は気を失っていただけで、死を確認する為に脇腹に刺したとされるロンギヌスの槍ですが、傷口から水と血が出たという記述から、それが生きていた証拠で致命傷にならなかったのではないかという「気絶説」を主張していました。
医者であるニコデモが、それに気が付き手当する事で3日目に一時的に意識を取り戻したという説です。
ただし、その後に天に昇られたのは、傷が原因で亡くなったという事です。
他には十字架にかかったのがイエス様ではない別人ではないかという「身代わり説」があります。
イスラム教のコーラン4章157節~158節にはイーサー(イエス様)は十字架にかかったように見えただけで生き延びて神のもとに昇ったと書かれていて、ムスリムの間ではイエス様は身代わりと入れ替わったと考えられているようです。
その身代わりはイエス様の十字架を担いで歩いたとされるキレネのシモンだったり、イスカリオテのユダだったりするようです。
イランでは実際にイエス様の代わりにイスカリオテのユダが十字架にかけられる映画が作られたりしているそうです。
おそらく、「身代わり説」を最初に説いたグノーシス主義の影響を受けているのだと思います。
「身代わり説」もその身代わりになった人物が誰かという事で意見が分かれますが、私は、もし、身代わりがあったとしたら「一緒に死のう」と言っていたイエス様の双子の兄弟であったと噂されるトマス以外に適役はいないのではないかと思います。
本物のイエス様なら、人を身代わりにする事は望まないと思いますが、自分が犠牲になるとトマスが懇願した可能性もあるかもしれません。
マタイの福音書27章46節では十字架にかかっているイエス様が「主よ、主よ、何故、私をお見捨てになったのですか」と、この上もなく大きな声で叫ばれたと書かれているので、トマスがイエス様の代わりに犠牲になっても「奇跡」が起こると信じていた可能性もあるのではないかと思います。
一方、銀貨30枚で祭司長にイエス様を売った裏切り者とされるイスカリオテのユダですが、マタイの福音書では罪の意識を感じて首を吊り、ルカの使徒言行録では高所から落ちて死んだ事になっていますが、死因が違う事からもユダの自殺には疑問を感じます。
最初からダブルスパイで、祭司長に身代わりを渡す役目を持っていたんじゃないかと思います。
イエス様が誰かを分からせる合図である「ユダの接吻」でトマスをイエス様だと思わせたわけです。
もし、この説が正しかったとしたら、ユダは裏切り者ではなく、師を庇って遠くへ逃がした忠臣であり、ユダの「金に汚い」というイメージは間違ったものになります。
この「裏切り者」のユダのイメージが後のユダヤ人全体のイメージに重なっている気がします。
ユダヤ人はキリスト教で禁止されていた金貸しの職業につくようになりますが、利子を多く取る事で財力を築きます。
その妬みから迫害を受け、白人の人種差別のターゲットにされて来た事実があります。
ユダヤ人が「金に汚い」というイメージを決定的にしたのはイングランドの作家、シェークスピアの「ヴェニスの商人」からだと思われますが、迫害はイエス様を救世主と認めずに処刑した民族という負のイメージが根本にあるように思います。
もし、ユダにイエス様を助けた忠臣という正のイメージがついていたなら、ここまで迫害はなかった気がします。
私は創世記のヤコブの十二人の子供のうち、ヨセフ族がイエス様を表し、銀貨20枚でヨセフを売ったとされるユダ族がユダヤ人を表す象徴のように感じます。
しかし、現在はイエス様はユダ族の子孫とされています。
ユダヤ人が財力を築けた原因は「フツパー」(厚かましさ)と「バラガン」(混沌)だと言われます。
常に少数派であったユダヤ人が逆境の中で成功した秘訣のようです。
日本人は周囲に許可を取ってから行動しようとしますが、ユダヤ人は先に行動を起こしてから周囲に承諾を得るそうです。
後者の方が自分の希望を相手に認めさせやすいというわけです。
ユダヤ人は「名」より「実」を取る民族だと思います。
高利貸しも、人から恨まれる仕事ですが、そういった仕事にしかつけなかったという経緯があります。
「実」より「名」を取る日本人とは真逆の性格と言えます。
日本人は質素でも清らかな生活を好みます。
ユダヤ人はヤコブの子孫で、日本人の縄文人はエサウの子孫だと私は思います。
ヤコブの子孫の中でもヨセフ族が率いる北イスラエル王国の十支族はエサウのエジプト人と結びつきました。
ヤコブは目の悪いイサクを騙してエサウの代わりに祝福を受けたり、エサウの長子の権利をレンズ豆の煮物で釣って手に入れたりしています。
契約書という約束で利息(利益)を求める形は高利貸しとも共通しています。
現在は公序良俗に反する契約は無効とか、無知な人が約束で不利益を被らないようにクーリングオフの制度とか、被害者救済の法律が色々と出来ていますが、当時はそのような価値観はなかったようです。
聖書ではヤコブが神様から承諾を貰う記述があり、ヤコブの行為が正当化されています。
創世記32章28節でヤボク川で天使と相撲をとって長子の権利を神様に認めてもらい、イスラエルという名前を貰ったという話は、手に入れてから承諾を得たというストーリー構成になっています。
イスラエルの「イスラ」(イシャラー)は「勝つ者」で、「エル」は「神様」で、「神様に勝つ者」とい意味になります。
この相撲をとった天使はバビロンの神様(エサウ)だったというのが私の考えです。
右の頬を打たれたら左の頬をも差し出しなさいとイエス様は勝つ事より、負ける事を教えました。
イスラエルの王ダビデは勝者であり、「怒りの日」の「火」を表します。
旧約聖書の「救世主」の記述に合わせる為にイエス様の思想を無理に変えようとしなくてもいいと私は思います。
私はユダヤ人は少しズルいようにも思いますが、とても頭が良くて「機転」が利く民族だと思います。
ヤコブの12人の子供でヤコブの寵愛を受けたヨセフが兄弟達から憎まれて、長子のルベンの意見で枯れ井戸に落とされた事があります。
その時、ユダ(後のユダヤ人)がヨセフをイシュマエル人の隊商に「奴隷」として売り飛ばす事を提案し、銀貨20枚を手に入れたと創世記37章に書かれています。
イシュマエル人はアラブ人で後のイスラム教を表します。
これは、イスカリオテのユダがイエス・キリストを銀貨30枚で売った時の事件とよく似ています。
しかし、ここでよく考えて欲しいのは、もしユダがこの提案を出さなければ、ヨセフは兄弟たちに殺されていた可能性があるという事です。
しかも、聖書には書かれていませんが、銀貨20枚をユダが独り占め出来るわけもなく、銀貨を貰えるというメリットを兄弟達に提案し、後で銀貨を兄弟達で分けたはずです。
他の兄弟達も銀貨を得ているはずなのに、この提案をしたユダだけが悪者になっています。
私はユダはヨセフと兄弟達の両方に最善の策を考え出したのだと思います。
そしてルベンがヨセフの服に「山羊」の血を塗って、父であるヤコブには獣に喰われたんだと嘘を言います。
ヨセフがエジプト人(エサウ)への「犠牲」の動物になるわけです。
そして、「奴隷」として売られたヨセフがエジプトの宰相として出世し、兄弟達と再会した時もヨセフに自分達をどうぞ「奴隷」にしてくださいとユダが言って「機転」を利かして兄弟達の命を助けたわけです。
ここでヨセフと兄弟達の「奴隷」の立場が反転しますが、それが最善の策だとユダが決定したわけです。
この「犠牲」と「奴隷」の対比は、ユダヤ人の「イサク」とアラブ人の「イシュマエル」の対比を思い起こします。
ユダヤ人の祖である「犠牲」のイサクの母であるサラは正妻ですが、アラブ人の祖であるイシュマエルの母であるハガルは「奴隷」で、サラの子孫(犠牲)が旧約聖書ではユダヤ人の正統な血筋になります。
創世記16章12節でイシュマエルは野生の「ロバ」と形容され、暴力的な性格として兄弟達と敵対して暮らすと預言され、そこにイスラム教徒であるアラブ人をハガルの子孫(奴隷)として当て嵌めたようです。
アラブ人の幾つかの部族はセムの子孫のヨクタンの末裔だとされますが、それ以外の大多数はハムの子クシュの子孫だとされます。
ハムの子孫はノアによってセムとヤペテの「奴隷」になるという呪いをかけられます。
このクシュから、地上で最初の権力者となった二ムロデが生まれます。
バビロンでバベルの塔を建てて「龍」(ムシュフシュ)を祀った王です。
おそらく、この創世記の「ノアの呪い」はバビロン捕因でハムの子孫(エサウ)によって「奴隷」とされたセムの子孫であるユダヤ人がその復讐の為に書いた物語だと思います。
創世記の最後の章は、エサウと橋渡しをしたヨセフのお葬式で終わり、次の出エジプト記ではエサウからの脱出という隠されたテーマが根底にあるのだと思われます。
しかし、イスラム教のコーランでは「イサク」と「イシュマエル」の立場がそっくりそのまま反転し、サラが「奴隷」でハガルの子孫のアラブ人が正統な血筋になっています。
「犠牲」と「奴隷」の立場が反転しているわけです。
イスラム教では神の言葉で矛盾する箇所があった場合は時代別に見て後から出て来た方を優先するという見解があるので「コーラン」の方が「旧約聖書」より正しいとなるようです。
ユダヤ人とアラブ人はまるで「鏡」を見ているような感じになります。
現在、ユダヤ人のハザール(カザール)問題というのがあります。
イスラエルを建国しているユダヤ人は主にヨーロッパにいたアシュケナジー系ユダヤ人なのですが、そのルーツがカスピ海と黒海の間に存在したテュルク系民族のハザール人だというものです。
テュルク系はトルコの事でイスラム教徒が多いのですが、ハザール王国はユダヤ教に改宗した国になります。
その為、難民となったパレスチナ人が、元々、エルサレムに住んでいた本物のユダヤ人で、現在イスラエルを建国しているユダヤ人はハザール人で正統性がないのではないかという主張です。
これはアーサー・ケストラーというハンガリー出身のユダヤ人が自身のルーツをハザールだと主張した「第十三支族」という書物が元になった話です。
イスラエルの歴史学者で左翼団体で活動したシュロモー・ザンドは「ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか」を執筆し、パレスチナ人を正統なユダヤ人と認め、ユダヤ人とアラブ人の共存する社会を主張しています。
ユダヤ人は大きく大別するとドイツ系の「アシュケナジー系ユダヤ人」とスペイン系の「スファラディ系ユダヤ人」がいました。
前者はヨーロッパに住み、後でポグロムやヒットラーによる白人の迫害を受けますが、後者は白人のキリスト教がイスラム教を排除するレコンキスタによってイスラム教と共に中東やアフリカなどに移り住みました。
現在、世界に散ったユダヤ人はアシュケナジー系、北アフリカ系、クルド系、中東系、イエメン系、エチオピア系の七つがあると言われます。
DNAを調べるとこの七つは、ほぼ違いはないとされ、ハザール人が混じっていたとしても、それはごく一部の事だと言われています。
現在のイスラエルのユダヤ人がハザール人ではないとしても、ユダヤ人とアラブ人の共存を考える事は悪い事ではないように思えます。
聖書に書かれている「イサク」と「イシュマエル」の立場の反転
がユダヤ人とアラブ人の立場の反転と問題を複雑にしています。
「約束の地」を神様が誰に約束したのかが線引き出来なくなっているからです。
ユダの話はこれぐらいにして、トマスの話に戻ろうと思います。
ヨハネの福音書20章29節で復活したイエス様の噂を他の弟子達から聞いたトマスが自分の目で見ないと信じないと言っていた事に対してイエス様が「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言ったとされます。
この件からトマスは「裏切り者のユダ」と共に「疑うトマス」と言われ、出来の悪い弟子の代名詞のようになります。
そして、キリスト教は「復活」を疑うトマスを反面教師として「信じる者は救われる」をスローガンに信者を獲得していきます。
私は、ローマや祭司長にトマスが本物のイエス様だと気が付かれたり、ユダに偽物を引き渡されたと気付かれては困るから、敢えてカモフラージュの意味で出来の悪い弟子のレッテルを二人に貼ったのではないかと思います。
トマスが本当に出来が悪いなら、言葉も違う、文化も違うインドの方がより難易度が高い場所だと思うのに、何故、そんな遠くに行かせたのだろうという疑問が生まれます。
「トマス行伝」ではその疑問に答えるように、イエス様の双子だと自称するトマスがくじによってインドに布教に行く事が決まり、渋るトマスに復活したイエス様がインドのグンダファル王の使者である商人に「奴隷」として銀貨20枚で売ったと書かれています。
くじにより決まったのに嫌がるから無理に行かせたという内容です。
それから、「黒蛇」や「ロバ」、「地獄」などの象徴をモチーフに人々に「罪」を語るという形式で、トマスが「悪魔」ではないかという印象を受けるような内容になっています。
「トマスによるイエスの幼児物語」では幼少期のイエス様が自分の気に入らない子供を「奇跡」の力で盲目にしたり、足を不自由にするなど悪戯をして、近所の人々が養父ヨセフに苦情を言うというような内容です。
また、「奇跡」の力で簡単に人を殺したり、生き返らせたりして、人々を馬鹿にして嘲笑う「隣人愛」の無い姿で描かれていて「悪魔」を思い起させます。
幼少期のイエス様が泥を捏ねて「雀」(すずめ)を作ったという話がありますが、おそらく、エジプトの太陽神ホルスを「隼」(はやぶさ)ではなく、「雀」(すずめ)と揶揄したのだと思います。
エジプトのヒエログリフでは「燕」(つばめ)が「大きい」、「良い」という意味なのに対して、「雀」(すずめ)は「小さい」、「悪い」という意味があるそうです。
エジプトはアレキサンダー大王の時代からギリシャの支配下にありましたが、キリスト教からすると異教の文明と重なり合う危うい国でもありました。
現在はイスラム教の国ですが、元々はオシリス、イシス、ホルスなど多神教の国であり、トマスがキリスト教のライバルであった多神教(マニ教)の創造主だという皮肉があるのだと私は思います。
あまりにも内容が悪魔的なので、私はこれらのトマスの名前がつく書物は、キリスト教を攻撃する目的で作られたグノーシス主義の偽作の可能性もあり、本来のトマスの言葉ではないのではないかと思います。
トマスがグノーシス主義と結びついたから異端として切り捨てられたのか、異端として切り捨てられたからグノーシス主義と結びついたのか、今となっては分かりませんが、トマスが日本における「禅」や「浄土教」などの仏教の成立に関与した内容を考えると、私は後者の方が可能性が高いように思います。
ここからは、キリスト教が仏教に与えた影響について少し考えたいと思います。
インドに渡ったトマス(イエス様)はガンダーラで仏教と出会い、大乗仏教を生み、アルメニアのトマス教会があった都市アミダから来たという事で阿弥陀如来(あみだにょらい)が生まれます。
浄土教は「浄土」(天国)、「懺悔」(ざんげ)、「滅罪」(めつざい)、「救済」(きゅうさい)といったそれまでの仏教に無かった概念を取り入れて突然変異したようです。
阿弥陀如来には二つの名前があって「アミターユス」(無量寿)と「アミターバ」(無量光)です。
「トマス」と「イエス様」に当たります。
別々の神が一つになったものだと言われる方もありますが、私はそうじゃないと思います。
前者は「永遠の命」(生命の樹)のトマスで、後者は「大いなる知恵」(知恵の樹)で、闇を照らす「光」が知恵を表す事から後者が「十二光」を代表するイエス様になります。
「死」と「復活」を表しているわけです。
エジプトで発見されたナグ・ハマディ写本の中のトマスの福音書からグノーシス主義が誕生し、キリスト教を脅かすマニ教という世界宗教がゾロアスター教から生まれます。
私はマニ教がイスラム教の誕生にも影響したのではないかと思います。
日本に仏教を伝えようとした「蘇我氏」は私は「ソグド人」だと思っていて、この「マニ教」を日本に入れようとしていたんじゃないかと思います。
「蘇我氏」のシンボルである「雀」は「トマスによるイエスの幼児物語」で幼児のイエス様が泥から作った鳥になります。
広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)は、キリスト教の救世主を表す仏教の仏様で、ユダヤ教、キリスト教、仏教、ゾロアスター教を全て融合した混交宗教であるマニ教が掲げる最高神的な性格を持つからです。
ただし、広隆寺には弥勒菩薩像が2体あって、それぞれ、2対のケルビムを表し、皇極天皇と天武天皇が象徴されていて、主役は阿弥陀如来を表す皇極天皇の方だと思われます。
広隆寺の元々の名前は蜂岡寺(はちおかでら)で「蜂」は女王蜂の聖母マリアのシンボルになりますが、元々は推古天皇という女帝を立てた「秦氏」を象徴しているようにも思えます。
推古天皇が崩御して、天照大神が岩戸に隠れた後は、土師氏が「蜂」を象徴するようになります。
「マニ教」は「葡萄の樹」(知恵の樹)を神聖視し、グノーシス主義と共に初期キリスト教の最大のライバルとされました。
「マニ教」はゾロアスター教を国教とするササン朝ペルシアで生まれ、その後ウイグルが「摩尼教」(マニ教)を国教と定め、それが唐に移り、唐ではネストリウスの景教徒やゾロアスター教と共に唐代三夷教と呼ばれました。
元朝を倒して「明」を建てた白蓮教(びゃくれんきょう)なども「明教」(マニ教)を国教とした国のようです。
その後、「マニ教」はキリスト教とイスラム教によって勢力圏を奪われ、歴史から消滅する形となります。
トマスは、東洋ではあらゆる宗教に影響を及ぼしていて、単なる「疑うトマス」とは到底、思えず、宗教の天才だったんじゃないかと私は思います。
また、南インドで誕生した仏教の一派の「禅宗」の始祖の達磨大師(だるまたいし)もトマスの影響を受けた弟子の一人だと思われます。
「禅宗」は仏教と道教が結びついて生まれた宗教だとされます。
ヨハネの福音書の14章5節に最後の晩餐で、トマスが「主よ、何処へ行かれるのか、私達には分かりません」と聞き、イエス様が「私は道であり、真理であり、命である」と答えます。
弟子達との別れを決意したイエス様が既にキリスト教が生まれる「道」が出来ているので後は弟子達に進むだけだという意味で言われたのか、或いは異教徒への伝道の「道」を表しているのかは分かりませんが、この質問の代表者のトマスが「道」の当事者だと
私は思います。
中国で誕生した道教(どうきょう)も私はトマスに影響を受けた宗教の一つだと思っています。
道教は一言で説明するとグノーシス主義の二律背反(にりつはいはん)を否定する一元論(いちげんろん)の宗教です。
太極図
道(タオ)は太極図(たいきょくず)で表され、黒(水)と白(火)の陰(女)と陽(男)が本来は正反対のものに見えますが、重なり合い一つだという宗教です。
奇麗と汚いも、明るいや暗いも、神様と悪魔も、人間が勝手に作り出した偶像で全ての根源は一つだという考え方です。
陰陽を表す勾玉のような形は、陰陽魚と呼ばれますが、魂の形や、人間の胎児を表しているとか蛇を表しているとか色々と言われています。
万物を動かしているものが「気」(き)=「氣」(き)であり、ギリシャ語の「プネウマ」(息)になり、キリスト教の「霊」(れい)に当たります。
「火」と「水」から「風」(気)が生まれるという訳です。
日本の場合は天照大神の「火」と素戔嗚尊の「風」の誓約によって宗像三女神の「水」が生まれ、三つ巴が「聖霊」のシンボルとなります。
万物に宿るものが「精霊」(せいれい)と呼ばれ、原始宗教のアニミズムになり、八百万の神の日本神道へと繋がります。
「精霊」と「聖霊」の違いは「神の意志」があるかないかの違いです。
イスラム教では「精霊」は「ジン」と呼ばれ、アラジンと魔法のランプが有名ですが、善と悪の両方が存在します。
医療の発達していない当時は病気は「悪霊」の仕業だと考えられていましたが、現在は細菌や、怪我、栄養や運動不足、ストレスなど様々な原因が判明して、物理的な説明が出来るようになってきています。
「聖霊」の「人格」が在るか無いかが議論になりますが、在ると考える方は聖書の中で使徒達が「聖霊」を呼ぶ時の代名詞が「それ」ではなく「彼」というギリシャ語を使用している事を根拠とし、無いと考える方は「聖霊」の代名詞が単なる擬人法だと考えるようです。
「聖霊」は「火」や「水」など、「力」や「エネルギー」のようなものですが、そこに「神の意志」がなければ、ただの「自然現象」になってしまうので、「奇跡」のように通常では起きない神秘的な体験を指すようで、信じる者の内に宿る「生命力」が「聖霊」だとされます。
ある人は「太陽」に例えられるイエス様を信じる事によって「太陽」の「光」が体に宿る感じだと言います。
神様と人間を結ぶ存在が「聖霊」になるようです。
八幡神は「多神教」の代表神ですが「聖霊」を意識して「鳩」が使いに選ばれたのだと思います。
「聖霊」というと光り輝く奇麗なイメージがあり、温もりを感じるクリスマスのイルミネーションを私は思い浮かべます。
エジソンが白熱電球を発明するのに石清水八幡宮の男山にある「竹」からフィラメントを作り、40時間、電球を輝かせるのに成功した事から、石清水八幡宮の境内にはエジソン記念碑が建てられています。
電気の無かった時代には電気の力は魔法の力で「奇跡」そのものだったと思います。
人間は核弾頭という最大の「火」を手に入れ、相手を「悪魔」と罵り合い、終末論も現実味を帯びています。
「竹」は「節」(ふし)=「不死」(ふし)を持ち、遷宮(せんぐう)のように「親」と「子」を繋ぐ事で「永遠の命」を表すようです。
日本の天皇は不老不死の磐長姫(いわながひめ)より、寿命を持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を選びました。
明治維新以降は明治政府によって天皇家が神格化されましたが、元々の天皇家は「永遠の命」を持つ「神の子」ではなく「寿命」を持つ「人の子」を選ばれたという事です。
「人の子」は普通ですが、普通である事が神様が作った「本当の奇跡」だという事です。
奈良県王寺にある達磨寺の境内に、達磨大師が持っていた「竹」の杖を地面に刺した所、一夜にして「竹」が成長したとされる「一夜竹」(いちやだけ)という場所があります。
この「竹」は蓬莱竹(ほうらいちく)という種類ですが、別名を達磨竹(だるまちく)と呼び、「復活」の象徴として「生命力」を表しています。
蓬莱(ほうらい)は不老不死の薬を仙人が作ると言われる中国の伝説の蓬莱山(ほうらいさん)の「竹」という意味だと思います。
「竹」は竹生島の弁財天(持統天皇)の象徴でしょうが、この達磨寺の「一夜竹」ですが、偶然なのか、わざとなのか、根本から二本の「藤」の樹が捻じれながら隣の藤棚まで伸びています。
ある意味、こちらの方が凄いと思うのですが達磨寺の案内には何も書かれていません。
「藤」は藤原氏を表しますが同じように「不死」を意味します。
二本なのは聖徳太子と達磨大師を表しているようで面白いです。
そして、このお寺では聖徳太子の飼い犬の「雪丸」という「犬」(いぬ)の像があります。
「雪」は「厳冬」(げんとう)を表し、「猪」(いのしし)の姿で表される推古天皇(千手観音菩薩)を連想しますが、「雪丸」は秋田犬で、秋田にお墓があるという小野小町(おののこまち)を象徴しているのだと思います。
奈良時代に「楢紋」(ならもん)の宗像大社のリーダーであった弁財天の持統天皇が、平安時代以降には小野小町と名前を変えられ、様々な逸話が創作されたのだと思います。
小野小町に求愛した深草少将(ふかくさしょうしょう)とは天武天皇の事で、「深草」(ふかくさ)とは「竹」を意味します。
「百夜通い」(ももよがよい)という百夜、通いつめたなら求愛を受け入れると約束しますが、九十九日目に大雪が降って深草少将は雪に埋もれて死んでしまうという話です。
「百」は桓武天皇を生んだ母方の百済(くだら)の事で、足りなかった「一」(いち)は市杵島姫の「市」(いち)を象徴しているのだと思います。
達磨寺「一夜竹の根本から生える藤の樹」
達磨寺 雪丸の像
ヨハネの福音書の7章37節で、イエス様が「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言った事からイエス様の「聖霊の満たし」を「水」に例える方も多いようです。
道教は「水」を「生命の源」と考えたようです。
そして、万物は女性から生まれるとして、女性を崇拝するのが道教の特徴です。
神道も道教の影響を受けていて、神社で本殿に向かう参道(さんどう)は産道(さんどう)の意味を持つようです。
禅はこの道教と習合した仏教になりますが、道教の「水」を使わず庭園に枯山水(かれさんすい)を用います。
枯山水が表しているのは「死」で、砂紋(さもん)により「砂」で「水」を表現し、「死」と「生」が一つであることを表現しています。
道教に漁業や航海の守護をする媽祖(まそ)と呼ばれる神様がいます。
日本の推古天皇に当たる神様で、千手観音菩薩などの観音菩薩の原型で、キリスト教のマグダラのマリアに当たります。
人間から神様になった人物です。
神道でも人間の菅原道真(すがわらのみちざね)が天神という神様になるように道教の影響を受けています。
人間が死んであの世に行くと選ばれた人は神様と同じように力を持つという考え方です。
人間が神様になるというのは恐れ多い事で、現代のキリスト教では考えられない事です。
人がこの世で生きているのは天命(てんめい)という天(神様)からの使命があって、死ぬと使命が終わり神様と共にあるという考え方です。
私はイエス様は「人の子」ですが天から使命を受けた紛れもない救世主(メシア)で、現在は天国で神様と共におられると思っています。
最後の晩餐
イエス様は「旧約聖書」(神様)の「言葉」を絶対視するのではなく、「隣人愛」(人間)を中心に世界を見るように方向転換を促した救世主だと思います。
芥川龍之介が自殺前夜に脱稿された「続西方の人」で書かれているキリスト像は、イエス・キリストは本当は「神の子」ではなく「人の子」になろうとしたのではないかというキリスト像です。
最後の晩餐でイエス様がこの中に裏切る者がいるといった相手は、ユダではなくペテロだったのではないかと考えさせられます。
それは、芥川龍之介の視点で見たペテロ観が、「鶏が鳴くまでに三度、私を知らないというだろう」という「裏切りの預言」だけを指すのではなく、大祭司の僕にナイフで切りかかったように、師の本意を理解せずに無意識に裏切り者になってしまう可能性のある人物だという点です。
作中では大きな教会を建てて「神の子」を強調するペテロは、ルターと同じく芥川龍之介のカトリックへの批判を意味しているのかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の「最後の晩餐」では、ペテロは感情的になって裏切り者を殺してやりましょうとばかりに右手にナイフを握っているのですが刃先が隣に座る兄弟のアンデレの方を向いていてアンデレが驚いて手の平を正面に見せる構図になっています。
本人は気が付かずに身内に刃先が向いているわけです。
ナイフ(剣)は権力の象徴で、事実、ペテロはローマと結びつきカトリックが巨大な権力を手に入れます。
異端審問や宗教裁判、十字軍、アルビ十字軍など、沢山の犠牲者の上で権力を維持しました。
現在はプロテスタントなどの宗教改革者によってカトリックの「剣」が取り上げられ、政教分離が進められましたが、どれだけ多くの人が亡くなったかを考えると、イエス様の真意とは逆に進んでいたように思われます。
ミカエルのアトリビュート(象徴的持物)が「剣」で、「火」を表します。
外典である「ペテロ行伝」によるとペテロは皇帝ネロの迫害を受け殉教する時に「自分はイエス様と同じ十字架にかかる資格もない」と「逆十字」を希望したとされ、ペテロを初代のローマ教皇とみなすカトリックでは「逆十字」は「謙虚」の象徴とされます。
しかし、ギリシャ教父のエウセビオスは「ペテロ行伝」を否定し、大多数の学者が新約聖書中の「ペテロの手紙」も真正のものとは考えていないようです。
洗練されたギリシャ語がペテロのイメージと結びつかない事や、本文が35箇所もある七十人訳聖書からの引用になっています。
七十人訳聖書はカトリックに都合の良い外典を含める為の聖書だと主張する人もいるようです。
カトリックが権威を持つ為にペテロを利用していると見る向きもあったようで、ここから、「逆十字」を「悪魔崇拝」と結び付けて考える人も出て来ます。
カトリックが権力を持つようになってトマスやマグダラのマリアは完全にキリスト教から切り離されてしまいます。
その後、西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)が分かれたのも、西方教会のローマ教皇がペテロがイエス様より受け取ったされる「天国の鍵」の後継者だと考えたからだと思います。
ネストリウスの景教徒はトマスやマグダラのマリアを指示した教派だと思われますが、異端として追放されてしまい、それが日本に秦氏と共に入って来て、神道という独特の価値観を生み出したんだと思います。
このマグダラのマリアに照明を当てたアメリカの小説家のダン・ブラウンの書いた「ダ・ヴィンチ・コード」ではマグダラのマリアがイエス様の子供を宿していたので、イエス様の子孫を守る目的でシオン修道会が組織され、その会員であるレオナルド・ダ・ヴィンチが、秘密を「最後の晩餐」に隠したというものです。
シオン修道会はレオナルド・ダ・ヴィンチより後の時代のものなので、会員であったという記録はないそうですが、真実は歴史とは違い隠されるものなので、可能性として考えてみるのも一興だと思います。
「最後の晩餐」で我々から見てイエス様の左に書かれているのが使徒ヨハネですが、通常はイエス様の胸にもたれかかる構図で描かれる人物です。
女性的に見えますが若い男性だと考えられています。
しかし、この「最後の晩餐」ではイエス様と反対の左に傾いていて中央に「Ⅴ」という空間が感じられる構図となっています。
この空間は、「器」や「受け皿」を意味し、この使徒ヨハネとされる人物が本当はマグダラのマリアだとダン・ブラウンは指摘します。
実際、この「最後の晩餐」の模写をしたレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子の絵が残っていて、それを見ると使徒ヨハネと言われていた人物が、どう見ても髪の長い女性だという事が分かります。
しかし、この人物が使徒ヨハネではなくマグダラのマリアだとしたら12使徒の一人であるはずの使徒ヨハネが「最後の晩餐」で描かれていない事になり、到底、受け入れられないと教会関係者は語ります。
しかし、この「最後の晩餐」にはイエス様の肉を表す「パン」や、血を表す「葡萄酒」の入ったグラスは描かれているのですが「聖杯」が描かれていません。
この時使用された「聖杯」はイエス様が十字架にかかった時にも「血」を受けたとされるもので、描かれていないはずはないといういうものです。
ダン・ブラウンは「聖杯」はイエス様の子を宿した「マグダラのマリア」そのものだと主張します。
「血」を受けた「聖なる器」です。
ボッティチェリ 「聖三位一体」
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「洗礼者ヨハネ」
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
「最後の晩餐」で我々から見てイエス様の右で人差し指を立てている人物が一般的にはトマスだと言われています。
まるで、実態が無い事を示唆するように身体が描かれておらず、顔と手首だけが描かれています。
私は、この人物が使徒ヨハネだと思います。
イエス様の右(我々から見て左)にマグダラのマリアがいて、左に洗礼者ヨハネがいる構図はボッティチェリの「 聖三位一体」から着想を得たのかもしれません。
「右」は天国で、「左」は地獄で、現に洗礼者ヨハネは「サロメ」によって首だけをお盆に乗せられる地獄を見ました。
人差し指を立てている人物が首だけなのは洗礼者ヨハネを象徴していますが、「最後の晩餐」に登場する人物ではないので、洗礼者ヨハネを体現する人物、それが、洗礼者ヨハネの弟子で後にイエス様の弟子になったとされる使徒ヨハネです。
そして、本来、その人差し指が指し示す方向はイエス様なのに、何故か天に向けられています。
おそらく、中央のイエス様がトマスであり、天には「復活」の後の「神の子」となられるイエス様を指しているのだと思います。
美術研究家のシルヴァーノ・ヴィンチェーティがレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の瞳の中に「S」と「Ⅼ」の文字が描かれている事と、背景に描かれた「橋」の上に「72」の文字が描かれている事を発見しました。
「Ⅼ」は、当初から「モナ・リザ」のモデルだと言われていた女性のリーザ・ゲラルディーニですが、「S」はレオナルド・ダ・ヴィンチから寵愛を受け、遺産相続もした弟子の男性ジャン・ジャコモ・カプロッティで通称サライと呼ばれていた人物ではないかという事です。
「モナ・リザ」の顔を中央で割ると我々から見て左は男性、右は女性の両方の性を表しているように見えます。
おそらく、男性は使徒ヨハネ、女性はマグダラのマリアを表しているようですが、ボッティチェリの「 聖三位一体」の構図とは真逆になり、我々から見て右(本人から見た左)の顔半分のマグダラのマリアの方が地獄に落ちる形になります。
天国の「右」、地獄の「左」は常に本人から見た方向になります。
それで、この絵画を中央で真っ二つに割り、左右を入れ替えると、中央に三角の「山」が出現すると言います。
おそらく、ピラミッドであり、「プロビデンスの目」を表しているのだと思います。
そして、もう一つの暗号の「橋」の上の数字の「72」ですが、こちらは何の記号なのかは分かっていないようです。
「橋」は別々の陸地を結びつける為のもので、この数字が使徒ヨハネとマグダラのマリアを結びつけているものになります。
おそらく「72」は「七十人聖書」の成立の過程でエルサレムからエジプトのアレクサンドリアに「72」人の学者を送らせたと主張する「アリステアスの手紙」を指していると私は思います。
「七十人聖書」を作るのにカトリック側が「72」という数字に拘った背景にはユダヤ教のカバラにおいて天使の数が「72」という事も影響しているのかもしれません。
天使というのは「奇跡」の源ですが、元々はペルシアの神様を指し、ゾロアスター教では12年周期の世界が6回続くと転換期が訪れるとする12✕6=72年周期があると考えられていました。
おそらく、ここから天使が多く登場するエノク書などの書物が誕生し、キリスト教徒にも影響を与えたのかもしれません。
エノクは人間でありながら「父なる神」に認められて天に上げられ、メタトロンという名前の天使となり、小ヤハウェの異名を持ちます。
72の天使の名前を持つので、カトリックはメタトロンをイエス様と同一視させるために工夫を凝らしたのかもしれません。
メタトロンにはサンダルフォンという双子の弟がいて、こちらはトマスに対応するようです。
サンダルフォンは預言者エリヤの生まれ変わりだとして、マタイの福音書27章46節~54節でイエス様が十字架にかけられて「奇跡」が起きない事でイエス様が発した「主よ、主よ、どうして私をお見捨てになったのですか?」という言葉はエリヤを呼んでいる言葉だと解釈されているようです。
預言者エリヤは牛の神様のバアル神の敵対者なので、無理にトマスと結びつけようとしたのだと思います。
「天使」とは美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)の子供キューピッド(エロス)を意味し、神様と人間の仲介役になります。
聖母マリアの子供のイエス様であり、愛によって人と人を結びつける役割があります。
「奇跡」と「天使」は切っても切れない関係と言えそうです。
カバラによる「セフィロトの木」(生命の樹)ではケテル(王冠)がメタトロンで、マルクト(王国)がサンダルフォンであり、両者は繋がっているのですが、サンダルフォンは女性を表すシェキナと変えられる場合もあります。
この場合はケテル(王冠)がサンダルフォンになるのだと思います。
カバラ神秘思想の最初期の書物「ゾハール」(光輝の書)は南フランスのカタリ派やアルビ派の影響を受けて誕生し、シェキナとはマグダラのマリアを意味するようです。
三位一体の女神で、アテナ、アルテミス、アフロディーテと姿を変える月の女神でゾロアスター教のアシュラや、シュメール神話のイシュタルがルーツにあるようです。
時代を繋ぐ「奇跡」を「七十人聖書」で表している事にレオナルド・ダ・ヴィンチが皮肉を込めて「橋」
の上にこの数字を書き込んだのだと思います。
男性と女性というまったく真逆の性質のものを一人の人物に集約させるという奇跡の絵「モナ・リザ」も、
レオナルド・ダ・ヴィンチ
の試みであり挑戦だったのだと思います。
ダン・ブラウンは十字軍の予備軍として誕生したとされる「テンプル騎士団」はイエス様の子孫を守る目的で組織され、イエス様の血筋はフランスの最初の王族である「メロヴィング家」に嫁ぐ形で後世に残されたという説をとっています。
現在、「メロヴィング家」の血を引くスコットランドの「シンクレア家」の建てた「ロスリン礼拝堂」はアーサー王伝説に出てくる「聖杯のチャペル」のモデルだとされ、教会のあちこちに「聖杯」のモチーフが使用されています。
「マグダラのマリア」は南フランスに行ったとする記述は残っているようですが、そこからの足取りは謎に包まれています。
「テンプル騎士団」やグノーシス主義の「カタリ派」(アルビ派)はアルビ十字軍などカトリックによって捕えられ火あぶりにされ、この世から消されてしまいました。
ダン・ブラウンは「マグダラのマリア」の秘密を握っていた為に消されてしまったのだと推測されています。
「マグダラのマリア」が隠された原因は、「神の子」とされたイエス様が普通の人間に子供を宿す事はあってはならない事だから
だそうです。
この「人の子」か「神の子」かはキリスト教徒にとってはとても重要な意味を持ちます。
ユダヤ人やアラブ人はイエスを救世主とは認めていないので「人の子」の立場を取ります。
しかし、キリスト教徒は「救世主」と「神の子」がセットになっています。
「人の子」だと新約聖書の「奇跡」の記述に矛盾が生じるからです。
その為、「復活」は「神の子」の証明であり、「復活」がなければ新約聖書の「言葉」が全て嘘になってしまうと考えられる方もおられるようで、現在のキリスト教の解釈としては「神の子」と「人の子」の両方を合わせ持つ存在とされています。
一般的にイエス様のお墓というとエルサレム旧市街にある聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)や「園の墓」(そののはか)を思い浮かべますが、タルピオットにある2000年前に墓所だった場所で石灰石の骨箱が10個発見され、そのうちの6個にアラム語で「ヨセフの息子イエス」や、「マリア」、「イエスの息子ユダ」などの刻銘があったとされます。
これがイエス様のお墓だとする根拠は、この刻銘だけなので真相は分かりませんが、キリスト教にとっては「神の子」であるイエス様に遺骨が存在することはあり得ない事なので、「人の子」か「神の子」かに大きく関わってくる問題になります。
「悔悛するマグダラのマリア」 グイド・レーニ
フランス南部のサントボームの洞窟で33年間、苦行と瞑想をして悔悛(かいしゅん)したとされるマグダラのマリアを題材としてルネッサンスやバロックには「悔悛するマグダラのマリア」と言う頭蓋骨の髑髏(どくろ)を抱えるマグダラなアリアの絵が多く描かれました。
髑髏は「死」を意味するそうで、特定の人物を指すのではないと言われますが、どうしてもイエス様のものではないかという連想をしてしまいます。
この33年間の修行が、33の姿で人々を救う観音菩薩(かんのんぼさつ)への信仰となり、第33代天皇の推古天皇(すいこてんのう)という天照大神のモデルが生まれたのだと思います。
インドのヒンドゥー教などで信じられていた輪廻(りんね)の思想は天国と地獄の間に餓鬼界、畜生界、人間界などがあって、五道の世界を繰り返すとされていて、仏教ではこれに阿修羅の住む修羅界を加え六道にしました。
日本では六道の世界で迷っている衆生を救うのは地蔵菩薩だとされ、六地蔵とも呼ばれますが、元々の信仰は観音菩薩が五道から救ってくださるというものだったようです。
観音菩薩の中でも推古天皇を表す千手観音菩薩は千の手の平に一つづつの目を持っていて合計千の目を持つ為に千手千眼観音菩薩(せんじゅせんげんかんのんぼさつ)とも呼ばれます。
この手の平に目を持つマークを五本の指の「ハムサの手」と言います。
私は五本の指は五道の事だと思っています。
中東、マグリブ地方で使用されるお守りのデザインですが、目の代わりに六芒星が描かれたり、鳩のモチーフと合わさっていたり、色々なデザインのものがあります。
六芒星が描かれる場合は、太陽と月を内包する金星を意味するようで、愛と美の女神のアフロディーテになるようです。
真珠と関係の深い人魚や、アフロディーテは共にマグダラのマリアにルーツがあるようです。
ユダヤ教ではモーセの姉である「ミリアムの手」と呼び、イスラム教ではムハンマドの娘の「ファティマの手」、キリスト教ではイエス様の母、「聖母マリアの手」と、姉、娘、母と立場は違いますが身内の女性の手を表します。
三つの宗教を繋ぐ三位一体の女神ですが、私は「聖母マリアの手」ではなく、妻の「マグダラのマリアの手」が本当の姿だと思います。
その根本的なルーツはシュメール神話の羽の生えた獅子であるアンズー鳥を使いとするイシュタルで、神々の権威である「メ」=「目」を表しているのだと思います。
この天国と地獄の中間の世界をカトリックが取り入れ、「煉獄」(れんごく)と名付けて、ここにいるご先祖様などの親類や、知人を天国へと導く為には生きている者が祈る事によって罪が許されると免罪符を発行して大儲けしました。
その結果、プロテスタントが生まれて宗教改革が起こり、カトリックの政教分離が実現しました。
トランプの「ハート」はマグダラのマリアの「聖杯」を意味しますが、日本では「猪目」(いのめ)と呼び、島根県出雲市の猪目洞窟(いのめどうくつ)のように「あの世」の入り口とされたり、火除けの「水」の意味で「懸魚」(げぎょ)の装飾に用いられたりします。
京都府
綴喜郡(つづきぐん)宇治田原町にある真言宗のお寺の正寿院(しょうじゅいん)の「猪目窓」(いのめまど)も「ハート」の茶道の窓として有名です。
綴喜郡には井手町(いでちょう)があり、「猪の手」を意味する射手明神(いでみょうじん)が祀られ、推古天皇を吸収する皇極天皇(神功皇后)の「鏑矢」(かぶらや)を意味します。
「猪目」(ハート)は「猪」の「目」の形に似ているわけではなく、「猪」が推古天皇や蘇我氏を象徴するからだと思われます。
持統天皇や賀茂氏を象徴する「二葉葵」(ふたばあおい)の葉の形や、庶民を表す「片喰草」(かたばみそう)の葉の形も、どちらも秦氏と関係が深く、ハート型の「猪目」を基本にしているものと思われます。
ペイズリー柄のハムサの手
正寿院 猪目窓
マグダラのマリアが娼婦として歪められた一つの原因はヨハネの福音書の20章17節で復活したイエス様にマグダラのマリアが手を触れようとした時にイエス様が「私に触れるな」と言ったとされる記述にあると私は思います。
私は、この「言葉」をイエス様が言ったとは到底思えず、この「言葉」によって、イエス様とマグダラのマリアの間には楔(くさび)が打たれたように思います。
後、日本にもイエス様のお墓がある事をご存知の方もおられると思います。
青森県戸来村にあるイエス・キリストのお墓と言われる十来塚(とらいづか)と、その弟のイスキリという人物の十代墓(じゅうだいぼ)です。
十字架にかかったのは弟のイスキリの方で、本物のイエス様が日本までやって来たという伝承まであります。
イスキリはイエス・キリストを省略した名前だと思いますが、十来塚と十代墓と分けてあるのは兄弟で二人いた事を表したかったのだと思います。
歌詞が意味不明の現地の伝承歌の「ナニャドヤラ」や、「十来太郎大天空」と改名し、「ミユ子」という女性と結婚し3人の子を儲けて106歳まで生きたとか俄には信じ難い伝承も残っているようです。
おそらく、トマスとしてインドにやって来たイエス様の事だと思いますが、実際に日本に来なくても、トマス(イエス様)の遺骨の一部を弟子達が持って来て仏舎利のように祀る事は充分にあり得る事だと私は思います。
日本に伝わる禅宗(ぜんしゅう)は菩提達磨(ぼだいだるま)から始まり、臨済宗(りんざいしゅう)や曹洞宗(そうとうしゅう)、そして、黄檗宗(おうばくしゅう)といった宗派があります。
南インドの国王の第三王子で、中国の南朝の宋・梁の時代に広州に渡来し、北魏の洛陽を経て、少林寺に入り壁に向かってひたすら座禅をしました。
この「達磨」(だるま)はトマスとよく似た伝承を持つ人物で、インドでトマスの教えを受けた弟子の子孫の一人ではないかと私は思います。
トマス行伝にはインドの国王の弟のガドが死んで天国に行った時にトマスの建てた宮殿を見て、その後、蘇り、国王とガドは共にキリスト教を信じたと書かれているそうです。
蘇ったのが事実でなくても、インドの国王とトマスが繋がりがあったのは想像できます。
京都市左京区にある浄土宗のお寺の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の所蔵する五百羅漢図(ごひゃくらかんず)は、弟子が洞窟へ入ろうとしている光景や、聖者が雲に乗って天に昇ろうとしている光景を、達磨がキリストの復活と昇天として人々に語っている姿ではないかと言われています。
達磨は禅宗のお坊さんですが、浄土教の成立にも深く関わっている事が分かります。
「達磨」とはサンスクリット語で「法」(ほう)を意味します。
「法」とは「Law」(ロウ)であり、神が定めた「法律」や「法則」を意味します。
私は神様は存在すると思います。
ただし、神様とは全知全能の存在で「宇宙」そのものだと思っています。
手塚治虫の「火の鳥」の世界観と同じです。
オランダの哲学者のスピノザの提唱した神様と宇宙は一つであるという汎神論(はんしんろん)的な世界観です。
世界は無数の小さな原子の集まりで、法則に従って纏まったり離れたり形を変えますが、原子と原子の間には空間が開いていて、その為、放射線などのとても小さな粒子は物質をすり抜けてしまいます。
人間は遺伝子という設計図に従ってこれらの原子を組み立てているだけで、根本的に宇宙に存在する原子と違いはないという考えで、神様が人間のような単純な人格を持った存在ではないという考えです。
スピノザはユダヤ人でしたが、アムステルダムのユダヤ人共同体からは追放され、キリスト教神学者からも無神論者として攻撃を受けました。
原子爆弾を発明したアインシュタインもユダヤ人でしたが、スピノザの汎神論を支持していたようです。
スティーヴン・ホーキング博士の宇宙の始まりである特異点定理から、全宇宙は「法則」で全て説明がつくと主張するホーキング博士を無神論者と呼ぶ人達がいますが、私はそうじゃないと思います。
「法則」そのものが神様であり、宇宙も地球も人間もその神様の一部であり、歯車の一つだと思います。
神様の定義が違っているだけで、人間の尺度で考えるからおかしくなるのだと思います。
人間を神様から独立して存在するものと考えるのではなく、神様と共に宇宙に内在しているという考え方です。
創造主は認めるが「奇跡」や「預言」を信じない理神論(りしんろん)や、科学で証明出来ないような経験を超越する問題は保留にする不可知論(ふかちろん)など、名称は色々とありますが、単純に無神論を含む有神論だと私は思います。
これを一番、理解できるのは昔から「一即多・多即一」の華厳経や、「禅」(ぜん)の思想を知っている日本人だと私は思います。
我々の住む地球は太陽の周りを公転する惑星で太陽系と呼ばれます。
太陽も天の川という銀河系の星の集団に属していて、銀河系には太陽のような恒星が1000億個以上も存在していると言われます。
この銀河系の広さは約5万光年と言われ、光の速度で進んでも5万年かかるそうです。
そして、この銀河系が数十個集まったものを銀河群、さらに銀河群が100個以上集まったものを銀河団、さらに銀河団が1000個単位で集まったものを超銀河団と呼び、果てしなく宇宙は広がっています。
この巨大な宇宙を神様として捉え、人間をその一部としてお釈迦さんの思想を表したものが奈良の大仏というわけです。
物理学の世界で言うと原子核や中性子も、「物質」に対して「反物質」が存在し、世界は二つの相反するものがぶつかり合い、ビックバンと呼ばれる爆発が起こり宇宙が誕生したと言われます。
質量とスピンが同じで電荷だけが違う「物質」と「反物質」はまるで「神様」と「悪魔」の衝突のようです。
「物質」が「反物質」に少しだけ量が勝っていたのでその残った残骸が惑星になり、宇宙になったと言います。
しかし、私は、この世界には私達が知らないだけで、「反物質」の方が量が勝った宇宙も存在すると思います。
ブラックホールが或いはそういった世界なのかもしれません。
人間が存在する地球が「奇跡」なのではなく、人間が存在しない惑星も同時に誕生しているわけで、全てが片方だけの世界ではなく、どちらも存在するわけです。
あらゆる矛盾を含む世界が宇宙にはあって、私達が知っている世界はほんの一粒の世界に過ぎないと私は思います。
そういった世界の中で人間が想像する神様が果たして本当の姿なのかは疑問です。
地球上にいる昆虫などの下等動物も全てを創造したのが神様であるなら、人間だけが神様の似姿だと考えるのは人間のエゴのようにも感じます。
この宇宙には人間が知らないだけで人間以上の知能を持った生物も存在するかもしれません。
ヨブ記では、人間の計り知れない宇宙を司る仕事が神様にはあり、信仰心のある人が不幸にならないように個人の人生に一つ一つ神様が干渉しないという説明になっています。
個人の幸不幸の問題は宇宙全体から見たらどちらでも構わないという事のようです。
イスラム教では信者が問題を解決するのにイスラム法学者に相談に行きます。
イスラム法学者は、コーランやハディースから答えを導き出そうとするのですが、必ず最後に「全ては神が最もよくご存知」という言葉を最後に付けて、その答えが人間の解釈に過ぎないことを伝えます。
人間には完全な神様と違って間違った解釈をする可能性があるからだと言います。
人間が不完全だという謙虚な姿勢は慎重に真実を探ろうとする正しい姿勢だと思います。
禅は相対的な自然を受け入れる「無為自然」の道教の思想が核にあります。
善も悪も、美も醜も、生も死も、分けない一つの自然をそのまま受け入れるという思想です。
日本の場合は、この生と死も分けない禅の思想に武家政権が結びつき、武士道が生まれます。
鎌倉時代に元寇(げんこう)と対峙した北条時宗(ほうじょうときむね)は禅宗に帰依し、父の時頼と交友のあった南宋の禅僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)や、兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念(だいきゅうしょうねん)から教えを受けていました。
「武士道」は「死を美しく飾る道」で、日本の武家の男子は15歳になると成人の儀式である元服をして、切腹の作法を習いました。
主君の為に命を捧げ、いつでも犠牲になれる覚悟を表していたようです。
武士道は華道、茶道、弓道、柔道などあらゆる「所作」(しょさ)の「道」に影響を及ぼし、「寡黙」(かもく)が日本人の美徳となりました。
「寡黙」が美徳となったのは「言葉」には真実を伝えられないという禅の教えがあり、「言葉」は間違って使用すると災いを招く事を知っていたからだと思います。
しかし、新渡戸稲造は(にとべいなぞう)は「寡黙」とは真逆の雄弁家だったようで、西洋人に日本人の倫理観を説明する為に「武士道」を書きました。
キリスト教の神に対する人間の関係が、日本では主君に対する武士の関係と近く、どちらも「奉仕の精神」だと説きました。
そして、朱子学でも中心徳目である「仁」(じん)を武士道の説明でも用い、弱き者や負けた者を見捨てない優しさが人の上に立つものの必須徳目だと説明しました。
「梅は食うても核食うな。中に天神ねてござる
」と仁徳天皇の「仁」が天神の核である蘇我倉山田石川麻呂を意味します。
「仁」=「隣人愛」というわけです。
実際はバチが当たるのではなく、アミグダリンという毒が体に良くないので食べない方が安全だという事のようです。
初めて日本人の物の考え方に接した西洋人にとってはこの「武士道」という書物が理解の手助けにはなったようです。
日本に「禅譲・放伐」(ぜんじょう・ほうばつ)という言葉があります。
王朝が交代する時の二つの方法で、「禅譲」(ぜんじょう)は帝王が地位を有徳者に平和的に「禅」(ゆずる)=「譲」(ゆずる)事であり、「放伐」(ほうばつ)は帝王の資格のない不徳者を武力を持って討伐する事です。
「禅」では師資相承(ししそうしょう)と呼ばれる言葉や文字に頼らずに師から弟子へと武芸や学問を譲り渡してていく事を基本とします。
「放伐」はその逆で、武力で戦う事を意味します。
昔の武家社会では家を継がないものが「禅」を学び、長子の権利を「譲る」という事だったようです。
聖霊の象徴の鳩
ヨハネの福音書1章1節に「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」という記述があります。
この「言葉」を神様と同等だとする記述はヨハネの福音書だけに見られる特徴で、達磨大師とは真逆の考えになります。
これはイエス様の「言葉」ではなく、ヨハネの「言葉」なのですが、これから語る「言葉」がイエス様の考えと一致しているという事を確実にする為にこの文書を入れたのだと私は思います。
本来は別の物である「言葉」と「神様」を「似たものである」とすると、似た点と相違点をくどくどと説明しなければならなくなり、哲学書のように本質が分かりにくくなります。
その点、相違点を消してしまえば分かりやすくなるのですが、その反面、本質を間違って解釈しやすくなります。
この本質と相違点を巡って、信者の人々が論議しなければならなくなり、派閥がより生まれやすくなります。
「言葉は神であった」と断言したのは、この「言葉」が神様と共におられた「イエス様」を表す目的があるからで、初めに「言葉」があったで、「イエス様」が創造主であったと主張する目的が含まれているのだと思います。
そして、もう一つの目的は新約聖書で語られるイエス様の「言葉」である「福音」を「父なる神」そのものだと神聖化する目的があったと私は思います。
この「言葉」が「神様の意志」である「聖霊」であり、イエス様と「父なる神」を結ぶ存在として神格化する必要が生まれます。
私は「聖霊」を説明する為に「三位一体」(さんみいったい)が生まれたのだと思います。
「父なる神」と、「子なるイエス・キリスト」、そして、「聖霊」は別の人格なのですが、同等の存在で「唯一神」だという考えです。
「三神一体」ではないとされるのは「三神」では「多神教」になるので「一神教」の聖書の「言葉」に合わなくなるからです。
サベリウスという人物が最初に「唯一神」の「父なる神」がいて、「子なるイエス・キリスト」や「聖霊」はその化身だという「様態論」(ようたいろん)を唱えましたが、これは異端とされました。
何が悪かったかというと化身だと「父なる神」が神性があるのに「子なるイエス・キリスト」と「聖霊」が一段
下がるような従属する形となり、ヨハネが意図したイエス様の神聖化が無になるからです。
あくまで「イエス・キリスト」が創造主なわけです。
そして、「聖霊」は神様の「霊的な働き」だとされ、「奇跡」や「預言」などの事象も「聖霊」の働きだとされました。
創世記2章7節で創造主が土から人間を造って息を吹き込むと命を持つ存在となる記述がありますが、この「神様の息」が「聖霊」だとされます。
よく、「聖霊」は神様の使いである「天使」の事ではないかと我々は思いますが、「天使」は元々はペルシアの神様などの「異教の神」をモチーフに考え出されたものなので「被造物」(偶像)という扱いにされてしまっています。
これを同じとすると「多神教」を認めているようなものなので、「唯一神」で無くなるという同じ理由からだと思います。
「悪魔」とは元は「天使」だとされていて、「父なる神」に反逆したバビロンの「龍」(蛇)やカナンの「牛」を含む「異教の神」を表します。
地獄も、この「異教の神」が「火」で焼かれる事を想定して作り出された世界観だと私は思います。
「天使」そのものではないですが「天使」を遣わしている神様の「霊的な働き」は「聖霊」になるようです。
テオフィロスの「三位性」のギリシャ語の「トリアス」から始まり、テルトゥリアヌスが「三位一体」のラテン語の「トリニタス」という言葉を使っていたようですが、現在のような意味では用いられていなかったようです。
テルトゥリアヌスは女性は「蛇」に唆された「イヴ」が原型なので、「悪魔の通用門」だと女性蔑視の考えを持っていました。
これ以降、カトリックの教会では女性が差別されるようになり、「マグダラのマリア」が「娼婦」として排除され、「聖母マリア」が「聖霊」という言葉に置き換わっていったのだと思われます。
ペテロの意志とは関係なくトマスやマグダラのマリアが追い出された形になります。
この「父」と「子」と「聖霊」の「三位」の解釈が「相異本質」のヘテロウシオスから「類似本質」のホモイウシオス、そして「同一本質」のホモウシオスへと進み、同一であっても「三位」は独立した存在である「一本質三位格」という考えが生まれ、400年頃、アウグスティヌスが「三位一体」を完成させました。
アウグスティヌスはマニ教からキリスト教に回心した人物なので、マニ教から影響を受けたと言われたくない為に彼の名前を出したがらないキリスト教徒の方もおられるようです。
聖書自体には「三位一体」という「言葉」は出て来ないので「三位一体」を否定する立場の方もおられます。
それに対して肯定する立場の方は「言葉」が出ていなくても「概念」は出ていると反論されます。
しかし、その根拠も聖書の中の「言葉」が「概念」を表しているというだけで、新約聖書に納められていないイエス様の「言葉」もあるはずなので、結局はどれが正しいかは分からないように思います。
イスラム教がコーランの解釈に対して最後に付ける「神が最もよくご存知」という「言葉」は、それをよく表していると思います。
私は本来は福音記者のヨハネの場所にトマスが入るべきだったと思うのですが、「三位一体」が生まれた後、431年エフェソス公会議でイエス様を「神の子」ではなく「人の子」だとするコンスタンティノープルの総主教ネストリウスが異端とされます。
このネストリウスのキリスト教徒達が日本では秦氏と呼ばれる人達です。
そして、反対派を排除した後、イエス様を「神の子」から「神そのもの」へと神聖化を進め、「子」が抜け落ちてしまいます。
現在、南インドにいる東方諸教会の一つであるトマス派のキリスト教徒がネストリウス派から出ている事から、ネストリウスは、マグダラのマリアやトマスを指示していた為に追放された可能性もあるのではないかと私は思います。
追放された人々が「秦氏」として日本にやって来て日本人となり、禅や浄土教など日本の宗教に影響を与えたと思います。
ヨハネは福音記者の中で「復活」の「鷲」(鳳凰)を意味します。
「鷲」(わし)は「蛇」(へび)=「多神教」を食べる猛禽類で、鳥は鳥でも「鳩」のように大人しくなく、ローマ帝国やドイツ、アメリカなど「白人」を表す「力」のシンボルとなります。
そして、カトリックの土壌であるヨーロッパでは皮肉な事にヨハネの福音書やヨハネの黙示録に影響を受けたマルティン・ルターが現れ、免罪符(めんざいふ)などの百条からなる教会批判によりカトリックを抗議(プロテスト)し、プロテスタントを生み出します。
ルターは「明日、世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という有名な言葉を残します。
ドイツではアダムとイヴの食べた「知恵の実」は葡萄ではなくリンゴだと思われていたようです。
ただし、リンゴが品種改良されてヨーロッパで広く栽培されるようになるのは16世紀以降で、聖書に出てくる「知恵の実」はリンゴとよく似た黄色い杏(あんず)だった可能性も指摘されています。
杏は梅と、ものすごく近い種で、大分県では杏と梅の間の品種とされる豊後梅(ぶんごうめ)が有名です。
大分県のキリシタン大名の大友宗麟(おおともそうりん)は杏葉紋(ぎょうようもん)を家紋としますが、馬の轡(くつわ)の形だと言われます。
馬を支配する道具で、白馬は復活した救世主の乗り物のようです。
密教では白馬に乗るのは大日如来であり、和(輪)=鏡を以って貴しとする如意輪観音菩薩のお稲荷さん(愛染明王)になります。
ルターは例え自分の身が「蛇」のように滅びようとも若い人達を「啓蒙」(けいもう)していく「知恵の樹」を植えるという意味でリンゴの木と言ったようです。
神様が食べてはいけないといった禁断の「知恵の実」です。
宗教改革はルターのドイツとカルヴァンのフランスが中心となりました。
ボヘミア(ベーメン)の反乱から始まったドイツの内乱からヨーロッパの各国が介入して三十年戦争と呼ばれるカトリックとプロテスタントの国際戦争が起こります。
三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画「戦争の惨禍」
フランスはプロテスタント側に付き、カトリックとカルヴァン派(ユグノー)の宗教戦争であるユグノー戦争が起こり、死者は200万人から400万人にのぼったと言われます。
これだけの死者が出る事をイエス様が望んでいたとは到底思えません。
プロテスタントが生まれた原因は教会の腐敗に対しての不満を理由にあげる見方が一般的ですが、私は聖書の中における「呪い」の言葉や、「悪魔」という言葉が争いを生み「隣人愛」を引き裂いたのだと思います。
ルターはヴァルトブルク城で新約聖書をドイツ語に翻訳していましたが、その時に何度も「悪魔」に出会ったといい、インクの壺を「悪魔」に投げつけたという伝説まで残っています。
おそらく、プロテスタントにとっての「悪魔」はカトリックで、カトリックにとっての「悪魔」はプロテスタントになったのだと思います。
「言葉」の暗示はそれぐらい恐ろしいものだと思います。
「言葉」には物事を現実化する力があるとして日本では「言霊」(ことだま)と呼ばれます。
心理学では「貧しきものは幸いです」などの「言葉」を「ラベリング」と呼び、本来は不幸であるはずの貧しさが幸福に感じるようなります。
良い「ラベリング」によって良い結果をもたらす現象を「ピグマリオン効果」と呼びます。
これは、人々を幸福に導くので賛成出来ます。
反対に「ハムの子カナンは呪われろ」などの「言葉」は悪い結果をもたらしやすく、「ゴーレム効果」と呼びます。
イエス様が現れた理由は、この「言葉」を覆す事にあるのだと私は思います。
人生を幸福に過ごす為には良い「ラベリング」を行う方が良いのですが、悪い「ラベリング」を他人から貼られる事もあります。
マックス・ルケードの「たいせつなきみ」を思いだしますが、この世に存在する全ては創造主が創ったものであり、不必要なものはなく、「蛇」に悪いラベリングを貼っているのは人間だとも考えられます。
それが、「蝮の子らよ」とマタイの福音書23章33章でイエス様がファリサイ派のユダヤ人に対して使ったように、ファリサイ派のユダヤ人が「蛇」に対して悪い「ラベリング」をしていたからだと私は思います。
差別をしていた人が差別をされる「ラベリング」をされたわけです。
人の痛みを知る為には自分が同じような立場にならないと分からないからかもしれません。
エサウの踵を掴む「ヤコブ」が馬の脚に噛みつく「蛇」に代わる可能性があるという事のようです。
占いや、予言が当たりやすいのは、それを見た人達が、その「言葉」に引っ張られるからだと私は思います。
催眠術も、「言葉」による自己暗示を応用したものだと言われます。
レモンの果実という「言葉」には人間に唾液を分泌させるイメージがあるように体に作用するというわけです。
「言葉」は相手を思い通りに操ったり、人を欺く目的で使用される場合もあるので、慎重に扱わないといけないものだと思います。
勝尾寺の「だるま」
達磨大師の坐禅姿を模した張り子の置物に「だるまさん」があります。
手足がなく、目もありません。
最初に左目を書き、願い事をして、成就したら右目も書きます。
手足がない理由は、9年間も座禅をしていた為に手足が萎えてしまったのだと言われますが、私は物部氏の「蛇」を表しているのだと思います。
「蛇」は一度、光を見る必要のない地面に潜った生物で、その為にメクラヘビとして目が退化してしまい、あまり視力が良くないと言われます。
「蛇」の先祖は白亜紀の海中に棲む手足のあるアドリオサウルスだと考えられていましたが、現在ではアメリカのモンタナ州で化石が発見された地中に棲む手がなく足だけあるコニオフィスではないかという説が有力視されています。
地中に適応するようになってから海中にも適応する種が現れたという説です。
大型の爬虫類である恐竜が絶滅したとされる氷河期に寒さを乗り切る為に地面に潜ったのかもしれません。
目が退化した代わりに目と鼻の間にピット器官と呼ばれる動物の体温を感知する赤外線感知器官を持ち、暗闇や、擬態で周りの風景と同化した獲物でも位置が分かると言われます。
「蛇」に睨まれた蛙が動かずにじっとしているのは、動いて体温を上げる方が見つかる可能性が高い事を知っているからかもしれません。
「蛇」やトカゲが舌をチロチロと出すのは口の中にあるヤコブソン器官と呼ばれる臭覚器官に臭いの粒子を運んでいるそうですが、動物の動きで生じる空気の微妙な振動も感じとっているようです。
この為、じっとしていれば「蛇」に見つからない可能性が高いというわけです。
しかし、いよいよ危ないという時には、ぴょんと水の中に飛び込んだりします。
蛙が跳躍力が優れているのも動かない分だけ、動くときにはより遠くに離れないといけないからです。
蛙の前に「緑」と「青」の色紙を置き、驚かすとほとんどの蛙は「青」の方へ飛ぶそうです。
「青」を水と認識して、草むらより水の中の方が比較的に安全だという事を知っているようです。
手足のあるトカゲの場合は「蛇」と違い目が良く、地面に潜らずに生き延びた種族だったのかもしれません。
大己貴命が火から逃れるためにネズミの助けを得て地中に潜るのも「蛇」を意識しているからかもしれません。
「だるまさん」の話に戻りますが「蛇」は手足がなく自由が奪われた「籠の中の鳥」で、籠から出て自由を得た時には翼の生えた応龍(おうりゅう)=応神天皇(八幡神)=「龍」になるという事です。
法隆寺(ほうりゅうじ)とは「法」(達磨)の「隆」(栄)える寺という意味と、「法」の「龍」の寺という意味が含まれているのだと思います。
奈良県王寺町の達磨寺(だるまじ)では、聖徳太子の愛犬の「雪丸」(ゆきまる)の墓とされる一号墳の石室が、昔は地下道で法隆寺と繋がっていて聖徳太子が行き来していたとの伝承があります。
それから、この達磨寺には「片岡山飢人伝説」(かたおかやまきじんでんせつ)というものがあります。
片岡山で飢人が倒れているのを聖徳太子が見つけて自分の衣服を着せて食料を与えましたが、翌日に亡くなってしまい、哀れに思った聖徳太子がその飢人を埋葬します。
数日後、再び使者に様子を見に行かせたところ、遺骸が無くなっていて、棺の上に聖徳太子が着せてあげた衣服がたたまれて置かれていたといいます。
聖徳太子が、あの飢人は只者ではなく、達磨大師の化身に違いないと言い、達磨寺が建てられたとされます。
キリスト教の「復活」ですが、トマス(イエス)を表しているように私には思えます。
「蛇」は邪悪なものとして嫌われますが、イエスはそんな「蛇」にも同情心を持っていたのだと私は思います。
私は別に「蛇」が好きなわけではありません。
「蛇」は恐竜が活躍していた時代のただの生き残りです。
しかし、「毒」を持つ事から昔の人は畏敬の念を持っていたのだと思います。
「蛇」の特徴は足が不自由で盲目の人です。
古事記による記述で「蛇」を表す水蛭子神(ひるこのかみ)が海に流され捨てられる事から、そこには強者という概念はなく、弱者を表しているようです。
昔のユダヤ人は障害者は罪の為にそのような結果になったと考えて迫害の対象となりました。
インドのカースト制度で、身分が低い家庭で育ったものは前世で罪を犯したからだというヒンドゥー教の説明と似ているように思います。
お釈迦様は、この輪廻の悪循環を否定し、解脱をする真理を悟った方になります。
当時のユダヤ人の社会では生まれつきに障害を持つ人がいて、生前は何も罪を犯していないのにこのような結果になっているのは説明がつかないという事で、それは両親が罪を犯した結果だと説明されました。
創世記9章25節でハムの子のカナンがハムの代わりに呪われるシーンと同じです。
親の罪を子が背負うわけです。
この説明にヨハネの福音書9章3節で「神の業がこの人に現れる為です」と子が親の罪を背負う事をイエス様が否定します。
ヨブ記では善因善果、悪因悪果が否定され、この矛盾が解消され、善い行いをしても障害を持って生まれてくることが説明されますが、創世記だけを読むと先祖の罪を子孫は背負わなければならないという大前提が見えてきます。
著者が何を意図して創世記を書いたのかを考える必要があると思います。
私はダビデが神殿を建て迫害したハムの子エブス人を表していると思います。
しかし、元々、エルサレムに住んでいたのはエブス人で、ユダヤ人は後から入ってきました。
おそらく、エブス人が信仰した「蛇」を嫌ったのだと思います。
エブス人は日本では恵比寿さんで、神道では八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)と呼ばれ、藤原鎌足を象徴します。
マタイの福音書15章30節で足の萎えた人、盲人、唖の人をイエスが癒したと書かれていて、イエス様は障害者を差別する事無く同じように愛を持って接しようとしたようです。
それは、エブス人を迫害したダビデとは対立するもので、ルカの福音書20章41節に書かれるイエス様の「どうして人々はメシアはダビデの子と言うのか」という言葉をを思いだします。
人々はイエス様よりダビデの方が上だと思い込んでいるようです。
その為、ロバに乗る弱々しいイエス様に落胆し、民衆はイエス様を十字架にかけたのです。
もし、イエス様が本当の神様であるならば、何故、ロバを選んだのかをよく考えるべきだと思います。
差別をされる人を救う為に自らが差別をされる姿を取ったわけです。
イエス様は重い皮膚病患者、取税人、浮浪者、遊女、貧者など差別を受けている弱者の罪を癒す為に
現れました。
創世記3章15節に「蛇」は頭を踏み砕かれる存在として描かれ、その踏み砕いたものが誰なのかが問題となります。
旧約聖書の原文は母音記号がなく子音文字のみのヘブライ語で書かれていて、三人称単数の代名詞で「彼」、「彼女」、「それ」の三通りの解釈が可能になっているそうです。
カトリックの聖画像で聖母マリアが足で蛇を踏みつけている構図はこれを「彼女」と解釈したわけです。
蛇の悪魔メデューサは元々はエーゲ海周辺に住んでいたペラスゴイ人の信仰した豊穣神でした。
しかし、ギリシャを象徴するアテナの助けを借りてペルセウスが滅ぼします。
ペルセウスはミカエルでありペルシアを表します。
つまり、戦勝国が敗戦国を悪魔としたわけです。
メデューサはおそらく、そのルーツは「蛇」を表すアッカド人と結びついたシュメール人の信仰したイシュタル(イナンナ)であり、「蛇に唆された女のイメージ」がバビロンの崩壊と共に旧約聖書のイヴのイメージになったのだと思います。
聖母マリアは世界中に広がっていたイシュタルをルーツとする大地母神の信仰を吸収する目的で聖母マリアに蛇を踏ませたのだと思います。
メデューサが見るものを石に変える「邪視」(じゃし)という能力を持つとされたのは、蛇に睨まれた蛙が催眠術にでもかかったようにじっとしている事が、石にされてしまったように見えた事も影響していると思います。
それと、アッカド人は円筒印章(えんとういんしょう)など、世界で最初に彫刻を生み出した民族で、それがギリシャに伝わり、等身大の人物像のギリシャ彫刻を生みました。
人間とそっくりなギリシャ彫刻を見た人が人間が石になったと想像したのかもしれません。
石上神宮(いそのかみじんぐう)も、石切神社(いしきりじんじゃ)も物部氏の神社として有名で、石切(いしきり)は漢方薬などのお店も多く、トマスを意味するイスキリの意味も含まれているものと思われます。
「カナンの子孫」や、「エジプト人」、「牛」、「蛇」、「偶像崇拝」、「多神教」といった「言葉」は旧約聖書では呪われる対象として書かれていますが、これらは全てエサウを象徴した「言葉」だと私は思います。
これらの呪われた「言葉」を本当に神様が発したとは私には信じ難いです。
何故なら、エサウは長子の権利を奪われただけで、なんの咎(とが)も無いからです。
ユダヤ人を奴隷としたバビロニアの信仰した神様がムシュフシュと呼ばれる「蛇」(龍)であり、その奴隷から解放してくれたのが「鳥」を信仰するミトラ神(ミカエル)のいるアケネメス朝ペルシアのキュロス王であり、ここからユダヤ人にとって「鳥」(ミカエル)は聖なるもので、「蛇」(サタン)は邪悪なものになったんだと思います。
ダニエル書のダニエルは、バビロニアが崩壊するのをタイムリーに見ていた預言者です。
ダニエルの預言は抽象的な「言葉」で表されます。
鷲の翼の生えた獅子(バビロン)や、三本の肋骨(リィディア・バビロン・エジプト)を喰らう牙を持つ熊(メド・ペルシャ)、四つの頭と四つの翼(セレウコス朝シリヤ・プトレマイオス・カッサンドロス・リュシマコス)を持つ豹(ギリシャ)、そして最後に鉄の牙を持ち十本の角を持つ獣(ローマ)です。
その十本の角をダニエルが注意して見ているとその中にまた「小さい角」が出てきて、さきの角のうち三本が根元から抜け落ちて、その「小さな角」には人の目のような目があり、大きな事を語る口があったとされます。
この「小さな角」とはローマが滅んだ後にも存続するバチカンのローマ教皇を指すという説をとる人もいます。
ダニエルはユダヤ人なので、後にキリストを処刑した民としてユダヤ人を迫害する事になるキリスト教(異邦人)の存在を預言したのかもしれません。
ユダヤ人が他の民族に比べて預言者が多く出る理由は脳の構造にあるのかもしれません。
通常、言葉能力は左脳を使用すると言われますが、シャーマンなど予言や予知をする人の脳を調べると右脳の前頭葉が活発に活動していると言われます。
芸術などのイメージは一般的に右脳が作用すると言われています。
心理学のユングは個人の無意識の領域に民族や人類に先天的に備わった集合的無意識というものが存在するのではないかと考えました。
仏教ではこの集合的無意識をアーラヤ識と呼び、そのさらに奥に大円鏡智(だいえんきょうち)と呼ばれる神様の領域があるようです。
松果体が活性化して、他者と自分を区別しない「隣人愛」で満たされた時に宇宙と一体となった感覚になるのかもしれません。
予言は、こういった無意識が現在の状況を判断して、将来がどうなるのかを予測してイメージしているという事のようです。
ゼカリヤ書は救世主の預言が最も多く、新約聖書ではゼカリヤ書を引用する箇所が41回も登場するとされます。
ゼカリヤ書の9章9節に救世主が雌ロバの子の子ロバに乗ってやって来る事が預言されています。
私はロバはイスラム教を表していて、宗教戦争を無くす「汝の敵を愛せよ」のメッセージがあるのだと思います。
ヨハネの黙示録はダニエル書や、ゼカリヤ書などの旧約聖書のユダヤ人の為の預言をキリスト教に当て嵌めて補完したような預言だと言えそうです。
ヨハネの黙示録の「黙示」は神様の幻を見る事で、人類の最後の姿を預言しています。
ヨハネの黙示録は「最後の審判」と呼ばれる神様の裁きの日が来るという預言で、ヨハネの福音書の5章27節に神様がイエス・キリストに裁きを行う権威を与え、イエス様を通して人々を義を持って裁くと説かれます。
つまり、イエス様が鉄槌を下すという事です。
私は、イエス様は決して裁きの神様ではないと思うので、この部分に違和感を覚えます。
個人的に人類を善と悪に分ける二元論には反対だからです。
ヨハネの黙示録では地獄に落ちる対象がキリスト教以外の異教徒全てになります。
このヨハネが語るサタンを意味する反キリストの獣の数字「666」がプロテスタントの間で反カトリックのプロパガンダで使用されていた時期があったようです。
ローマ数字の表記法で、I(1)、V(5)、X(10)、L(50)、C(100)、D(500)、M(1000)とアラビア数字が充てられるのですが、ローマ教皇の地位を象徴する教皇冠(三重冠)に書かれている「神の息子の代理者」のラテン語の「VICARIUS FILII DEI」が、この表記法を当て嵌めるとV(5)I(1)C(100)A(0)R(0)I(1)U(5)S(0)F(0)I(1)L(5)I(0)I(0) D(500)E(0)I(1)となり、足すと全部で「666」になり、カトリックが「悪魔」だというというわけです。
ダニエル書の反キリストの「小さい角」をローマ教皇だとした場合、ダニエル書7章25節の聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手に渡されるという預言がナポレオンと激しく対立し幽閉されたピウス7世までのカトリック教会の年代とぴったり重なると言われます。
ひと時はひと月を30日とするユダヤ暦で1年の360日になり、ふた時はその二倍の720日、半時はひと時の半分で180日になり、全部を足すと1260日という数字が出てくるのですが、これを月に直すとヨハネの黙示録の13章5節の獣が活動する権威の期間の四十二か月の記述と合致するようです。
聖書の言葉の1日は1年を表すので、1260日は1260年になり、ナポレオンにピウス7世が捕らえられたのが1798年で、ここから1260年遡ると538年という年代になり、ローマ皇帝が教会の内部組織に干渉し支配するユスティニアヌス帝の皇帝教皇主義の誕生した時期に重なります。
もし、この解釈が正しかったとしたら、二つの可能性が出て来ます。
このヨハネの黙示録を書いた人物がローマ教皇に恨みを持っていて、それを分かりにくくする為に「666」という抽象的な数字で表したか、恨みはなかったが見たままの幻を記述したかです。
後者の場合も、それが単に個人の想像力の範囲内で見た幻である場合と、神様が人間に与えた紛れもない本当の啓示である場合の二つがあります。
結局、どの解釈も断言は出来ないので、最終的な「最後の審判」という結果が出るまで誰にも分らないと思います。
日本人の鬼(秦氏)を使役したとされる役小角(えんのおづぬ)はこのダニエル書の「小さな角」から名前を付けたのかもしれません。
「小さな角」は反キリストとして表されプロテスタントを生む切っ掛けとなったようです。
ヨハネの黙示録13章11節に海から上がって来た「小羊のような角が二つあって龍のように物を言う獣」とは、ローマ帝国を表す獣の像を造らせて拝ませたという記述からカトリックとプロテスタントの統一を目指すプロテスタント側のエキュメニカル(世界主義)を掲げる自由律神学者だと主張する人もいます。
私は、悪魔や獣を想定する事には否定的です。
マルティン・ルターは1522年にヨハネの黙示録に対して使徒的でも預言者的でもないと言ったとされます。
しかし、1530年には難解ではあるが神様の啓示の一部であり、他の書物と同等に尊いと態度を改めています。
私はルターが最初に感じた違和感の方が、直感的で正しい判断だったのではないかと思います。
しかし、考えれば考えるほど、どれが正しいのか分からなくなってきて、決めつけてはいけないと反省したのだと思います。
同じ名前でややこしいのですが、ヨハネの福音書の記者であろうとされる使徒ヨハネは、元々はバプテスマ(洗礼者)のヨハネの弟子だった人物で、後にイエス様の弟子となり、イエス様から最も愛された弟子だとされています。
しかし、これは、最も愛された弟子であるマグダラのマリアや、トマスの存在を隠す為にヨハネを充てたのだと私は思います。
あと、ヨハネの黙示録はギリシャ語の用法や文体が違う事からヨハネの福音書の記者とも違うのではないかとも言われています。
ヨハネの黙示録はローマ帝国のネロに続く第二のキリスト教迫害者とされるドミティアヌス帝の時代に書かれたと言われます。
迫害から逃れてエーゲ海のパトモス島にいた使徒ヨハネがキリスト教徒達を励ます目的で書いたものだとされています。
ギリシャ語が苦手な使徒ヨハネがパトモス島で仲間の助けを一切借りずに一人で書いたものなのでヨハネの黙示録は用法や文体が違うものになったのだと考える人もいるようです。
現在でも様々な説がありますが、確実な答えは見つかっていないように私は思います。
ヨハネの黙示録は、それだけ謎が多いのですが、ルターが生まれた事から、今度はプロテスタントの思想がジャン・カルヴァンに引き継がれます。
本来、世俗主義は人間中心の考えで神様に反逆するものと捉えられますが、ルターは世俗内救済を、カルヴァンは世俗内禁欲による「隣人愛」の実践を求めました。
それは、それまで市民が「お金」を蓄える事を罪として捉え、教会に寄付する事が罪の償いになるという考えがあった為、免罪符(めんざいふ)など教会に「お金」が集中する事にルターは疑問を感じたからです。
そして、パウロによるローマの信徒への手紙の1章17節の「義人は信仰によって生きる」という「言葉」にルターは出会い、人の罪を赦すのはイエス様であって教会でも教皇でも牧師でもなく、イエス様の十字架の救いを信じる信仰心が重要であって、イエス様と人との間には誰も立てないという「信仰義認説」が生まれます。
全知全能の神は、原因から結果までの過程を全てをご存知の方なので、天国に行く人間と地獄に行く人間は最初から決まっているんだという運命論的な考えを「予定説」と呼びます。
そうなるとあらゆる努力が意味をなさなくなり、その中で人間がどのようにして神様への服従を示すかというと人生で与えられた仕事を真面目に全うする事しかないとカルヴァンは考え、そこから禁欲主義が生まれます。
神様が運命の中で個人に与えた仕事は「天職」(てんしょく)で意味があるという考えです。
今まで教会に寄付されていた「お金」を市民が蓄えるようになり、そこから徐々に資産家が生まれていくようになります。
ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーはプロテスタントの禁欲主義が享楽に「お金」を使わずに蓄財し、未来の幸福のために投資する「資本主義」を生み出したと考えます。
彼は「神様」に代わるものが「人類」であり、そこから生まれるのが「社会」であり「科学」だと考えます。
「人類」は個人としては有限で相対で不完全ですが、「隣人愛」で協力し「科学」を発展させる事で無限で絶対で完全な「神様」へと近づけるという考えのようです。
しかし、現在、「お金」や「科学」によって兵器の威力が増し、宗教や宗派が違うだけでお互いを「悪魔」と罵って睨み合っている状態では、イエス様の望んだ「隣人愛」の世界からは、かけ離れているように感じます。
ヨハネの福音書15章5節で、イエス様が「私が葡萄の樹で、あなたがたは枝です」と言い、6節には「私に留まっていなければ枝のように投げ捨てられ、人々はそれを集めて火に投げ込むので燃えてしまう」と「最後の審判」を連想させる言葉が並びます。
「葡萄の樹」は「知恵の樹」であり、「科学の樹」でもあります。
山梨県甲州市にある大善寺(だいぜんじ)は「葡萄」を持った薬師如来が行基の夢の中に現れた伝承があり、「大蛇」をかたどった「藤」の「蔓」(つる)を神木にかけた後に切る「藤切り祭」が行われます。
「葡萄」はアダムとイヴが「蛇」に唆されて食べたとされる「知恵の樹」の果実で、「葡萄」の「蔓」が樹に巻き付く姿が「蛇」に見えたのだと思います。
カナンの地も「葡萄」の産地で
、
ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の七つの民が先住民族として暮らしていましたがイスラエル人(ユダヤ人)によって追い出され、七福神として日本に辿り着いたようです。
日本を代表する恵比寿さんは、エブス人であり、
水蛭子神(ヒルコノカミ
)と呼ばれる「蛇」の神様になります。
この「藤切り祭」で、「葡萄」の代わりが藤原氏の「藤」に代わっている事が分かります。
「藤」(ふじ)は「不死」(ふし)で、「復活」を表し、「蔓」(つる)は藤原氏のシンボルである「鶴」(つる)を意味します。
「鳳凰」(ほうおう)で「不死鳥」(ふしちょう)=「フェニックス」を意味するようです。
「蛇」が「鶴」に代わるわけですが、やはり、呪われた存在は嫌だったのかもしれません。
「蛇」は日本では物部氏の神様で「物を述べる」、「ひふみ祝詞」の「言葉」の神様です。
創世記のエデンの園で語られる「知恵の樹」の実を食べるようにイヴに発する「蛇」の誘惑の「言葉」は、人類を悪に引っ張る原因だと示唆しています。
知恵の実とは「科学」(哲学)であり、「科学」が神に背くものだという認識が生まれ、カトリックはギリシャ哲学と敵対します。
ヨース・デ・モンペル 「バベルの塔」 国立古美術館蔵
同じく創世記の11章のバベルの塔の崩壊は「科学」の崩壊を意味しているようです。
バベルの塔はユダヤ人を捕虜としたバビロニアにあったレンガとアスファルトのジッグラトと呼ばれる7階建ての建造物で、最上階に祭壇が設けられていて、そこにハムの孫であるニムロデ(ニムロド)王が、神に挑戦する目的で剣を持ち天を威嚇する像を設置していたと言われます。
結果としてバベルの塔は神の怒りを買い、神に逆らう原因は「言葉」なのでと、全土に人々は散らされ、それぞれが別の「言葉」を話すようになったというものです。
この当時のバビロニアはメソポタミア文明の中心地であり、「蛇」を神様とするアッカド語が国際共通語でした。
つまり、バベルの塔の崩壊は「科学」と「言葉」の崩壊を意味しているようです。
実際には、バビロニアは新バビロニアの時代まで世界の中心として機能していましたが、「鳥」を信仰するアケネメス朝ペルシアによって滅ぼされ、奴隷の生活から自由を取り戻したユダヤ人が旧約聖書を作り出したのが始まりだと思われます。
その後、エジプト文明、インダス文明、黄河文明と各地で文明が発展し、それぞれの「言葉」が生まれていったようです。
日本の物部氏はバビロニア、秦氏はアケネメス朝ペルシアの影響を受けた氏族であったようです。
人間の脳は「言葉」を発する「ブローカ野」と、「言葉」を理解する「ウエルニッケ野」の二つの部分が他の動物に比べて格段に発達していて、これによって他の動物にはない意思疎通が出来て、難易度の高い仕事を協力する事によって成し遂げてきました。
つまり、「言葉」が人間の協力を促して「科学」を生み出してきたというわけです。
ところが、その「言葉」や「科学」に呪いをかけた旧約聖書の著者であるユダヤ人が、「科学」によって神様を否定する共産主義という思想を生み出し、それが回り回って自分たちを苦しめる結果となってしまっているように私には思えます。
アメリカを筆頭にユダヤ教と結びつく資本主義と、ロシアを筆頭にイスラム教と結びつく共産主義がお互いに睨みあっています。
人類は無知を正す為にお釈迦様が生まれ、呪いを解くためにイエス様が遣わされたのだと思います。
「科学」を否定するのは馬鹿げていますが、「神様」を否定するのも浅はかだと思います。
アインシュタインのような特別な天才科学者が一億人集まっても宇宙の全てを解明する事は不可能だと思いますし、その宇宙を支配する「神様」が仮に存在したとしても、人間にそれを理解する能力が備わっているかどうかも疑問です。
東大寺の華厳(けごん)の教えの一即多、多即一の多神教と一神教が同じものだとする大仏=「神様」の在り方も充分にあり得る事だと思います。
日本におけるキリスト教人口は1%未満だと言われています。
その根本的な原因は、多神教の価値観と、一神教の価値観の相違だと私は思います。
人類最古のシュメール文明やメソポタミア文明が多神教であったように、本来、自然な形なのは多神教の方であって、特殊なのは一神教の方だと私は思います。
しかし、一部のキリスト教徒は日本にキリスト教が広まらない理由を「悪魔」のせいだとする人達もいます。
それは、イエス様が一番嫌っていた「ラベリング」だと私は思います。
私は日本には古来より武士道があり、その本質が自分より他人の為に命を捨てる事を名誉だとする「利他の精神」に本質があると思います。
それは、生に執着して「恥」を晒すより、潔く死ぬことに「美」を見出す、天皇家を中心とした木花咲夜姫(このはなさくやひめ)の「桜」として、藤原氏の子孫である「源氏」が子供の頃から教育をされていた経緯があります。
その「利他の精神」から見ると自分だけが救われて天国に行くというキリスト教の語る「隣人愛」が「言葉」だけの「偽善」に思えたのだと思います。
この多神教に一番、神経を尖らせているのがイスラム教の過激派です。
2012年11月10日にエジプトのイスラム教の原点回帰を唱えるサラフ主義、そして武力行使を厭わないジハード主義のムルガーン・サーリム・エルゴハリー師がテレビに出演し、エジプトのスフィンクスとピラミッドの破壊を呼び掛けて話題になりました。
エジプトを征服したイスラム軍の将軍アムル・ブン・アルアースだってエジプトの偶像を破壊しなかったのにとその時に一緒に出演していたジャーナリストに言われますが持論を曲げず、カアバ神殿にあった360体の偶像を使徒ムハンマドが破壊したように、エジプトの偶像も破壊しなければならないと主張して波紋を広げました。
厳戒態勢が敷かれ、人類の遺産の破壊は免れたのですが、いつ何時、そのような事件が起こっても不思議ではありません。
それは、神様の言葉とされるコーランの4章48節に神は他のいかなるものとも一緒に並べることをお赦しにならないと多神教を否定しているからです。
現在はスンニー派で穏健派のアズハル機構の総長アフマド・タイイブが政治力で過激派を抑えて、国際社会と融和していこうと努力されていますが、コーランに書かれた「言葉」を過激に解釈する人達を何処まで抑え込めるかが問題となっています。
現在の宗教問題を難しくしている要因の一つが「言葉」の神聖視であり、その解決策を考えると、禅の「不立文字」という思想が、如何に革新的な思想であるかが分かります。
多神教であるヒンドゥー教のインドのクジャラートではモディ首相によってマハトマ・ガンジーと共にイギリスからの独立運動で活躍した182メートルもあるサルダル・パテルの像が建てられました。
何故、マハトマ・ガンジーではなくサルダル・パテルなのかというと、彼がヒンドゥー教至上主義の民族義勇団(RSS)と結びつきがあり、インド・パキスタン戦争のヒンドゥー教とイスラム教の和解を目指したガンジーを批判した人物でヒンドゥー教のナショナリズムの英雄だからです。
サルダル・パテルの像は、これだけ大きいものを建てるのは偶像崇拝を嫌うイスラム教徒への意思表示なのかもしれませんが、国民からは税金の無駄使いとの指摘もあるようです。
さらに、ムンバイではトルコ系イスラム王朝のムガール帝国と戦いヒンドゥー教のマラータ王国を築いた英雄チャトラパティ・ジバジの像がパテル像も凌ぐ212メートルもの大きさで建設中です。
どちらもアメリカの自由の女神像の93メートルの約2倍もあるそうです。
インドにおけるヒンドゥー教とイスラム教のコミュナリズムの対立は、インドを植民地支配するイギリスが、ヒンドゥー教のインド国民会議、イスラム教のイスラム連盟を結成し、互いに反目させて漁夫の利を得ようとした事から起こった事です。
牛を神様の使いとみなすヒンドゥー教では憲法48条に牛の屠畜が禁じられていて、イスラム教徒の畜産業者がヒンドゥー教徒から殺されたりする事件も起きているようです。
兄弟喧嘩を利用する白人にストップをかける為に全知全能の神様がイエス様を遣わしたのかもしれません。
そして、その言葉に耳を傾けない場合は、本当に地獄の世界が出現するかもしれません。
日本も第二次世界大戦で敗戦した為、北海道と東北はソ連、関東、中部、関西、沖縄はアメリカ、四国は中国、中国地方と九州はイギリスの四つに分割統治される案が出ていたのですが、サンフランシスコ講和会議でスリランカ初代大統領のジャヤワルダナ氏の演説によって分割統治から免れる事が出来ました。
ジャヤワルダナ氏は白人の植民地支配に苦しめられたアジアの人々が日本が戦時中にスローガンとして掲げた大東亜共栄圏に希望を持って同調し、インド、ビルマ、インドネシアなどで日本に支援された独立軍が大きな役割を果たした事実を伝えました。
そして、スリランカは日本に対する賠償請求権を放棄すると伝え、その理由を「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」という法句経(ダンマパダ)のお釈迦様の言葉を引用し、会場の賞賛を得ました。
吉田茂首相は、日本人はスリランカから受けたこの時の恩は決して忘れてはいけないと言ったといいます。
スリランカはインド洋の真珠と呼ばれた島で、北インドから移動したシンハラ人が建てた仏教の国です。
紅茶が有名な島で、昔はセイロンと呼ばれていました。
サファイアの王様と言われるオレンジとピンクの中間色のパパラチアサファイアの唯一の産地でもあります。
パパラチアはシンハラ語で「蓮の花」という意味で、お釈迦様の悟りを意味し、愛の宝石と呼ばれています。
スリランカはポルトガル、オランダ、イギリスと西洋諸国に順番に植民地にされました。
イギリスに統治される時に少数派のタミル人やキリスト教が優遇され、仏教徒のシンハラ人は冷遇されるという分割統治が行われ、現在の民族闘争に深い根を降ろしてしまっている経験がありました。
宗教が違うと争いが起こりますが、一番悪いのは、その争いを利用する人だと私は思います。
一神教も多神教も、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというのではなく、お互いを尊重する社会になって貰いたいと私は思います。
キリスト教の話に戻りますが、戦国時代に日本で広まった「念仏のみ」の宗旨を持つ浄土教はイエズス会の宣教師からは「信仰のみ」の宗旨を持つプロテスタントに似ていると判断されました。
しかし、プロテスタントと大きく違う点は、基本的には全ての人が救われるという万人救済説に近い形を取るところです。
阿弥陀如来の48の誓願の1番目の誓いが地獄、餓鬼、畜生の三悪道の者を改心させて救うというものです。
信仰から外れたものを「最後の審判」で地獄に落とすというのではなく、そういった者でも救おうというものです。
そこには宗教を超えた差別を無くす思想が根底にあるように思います。
キリスト教が広まらない多神教の国だと思っている日本が、実はイエス様の真意が一番伝わっている国なのかもしれず、本当の偶像とは「言葉」の方なのかもしれません。
日本の浄土教が「念仏のみ」という形になったのは「無量寿経」(むりょうじゅきょう)の中で阿弥陀如来が立てた48の誓願の中の18番目の誓いが「念仏するものは必ず救い往生させる」から来ています。
念仏とは本来は言葉に出さずに仏様を頭に念じるという意味でしたが、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と阿弥陀様の名を唱える称名念仏へと変わっていきます。
観音菩薩とは音(称名)を観じて衆生を救う仏で、称名は元々は観音菩薩の六字真言(御名)でしたが、阿弥陀如来の「南無阿弥陀仏」の六字へと変わったようです。
誰でも出来る簡単な念仏で極楽浄土に行けるというわけで、ここから後は阿弥陀如来に任せようという他力本願という考え方が生まれます。
この18番目から「十八番」(おはこ)という言葉が生まれ、野球におけるエースの背番号の18番が生まれます。
「十八番」(おはこ)は「お箱」(おはこ)の事でユダヤ教の十戒、アロンの杖、マナの壺の三種の神器の入った「契約の箱」を意味します。
神様との契約が入った容器で、エジプトから脱出する十戒ではなく、地獄を無くす阿弥陀如来の契約を入れたのだと思います。
因みに、ユダヤ教の十戒と、キリスト教の十戒では内容が変わっていて、安息日がユダヤ教では土曜日となっているのに対して、キリスト教では日曜日になっています。
神様との契約なのにイエス様でもない人間が勝手に変えてはいけないと安息日を土曜日に戻す事を提唱している新興宗教などもあるようです。
私はイエス様自身が安息日に人を癒し、法よりも隣人愛を優先させる事を説いたので、現状のままでもいいのではないかと思いますが、そこは譲れないようです。
また、偶像の建造を禁止する項目もカトリックの十戒では無くなっています。
これは、第1戒の「私の他に神があってはならない」の項目が偶像崇拝の禁止の意味を含んでいるからという解釈のようです。
「契約の箱」の中身も宗教や宗派によって多少、違っているようです。
福井県三方上中郡に波古神社(はこじんじゃ)と呼ばれる神社があります。
天武天皇を意味する波邇夜須毘古命(はにやすびこのみこと)と天照大神、伊弉冉命(いざなみのみこと)の三神が祀られていて、「箱大明神」と呼ばれています。
伝承では伊屋の谷(現在の箱ヶ岳)の峯に光が指し、一つの箱の中から光が洩れていて、中に金色の神像があった事から、 これを御神霊と仰いで祀ったのが波古神社の始まりだそうです。
「伊屋」(いや)という地名は「否」(いや)=「NO」という意味でYESではないと意味があり、天武天皇はイエス様ではないという意味があると思います。
天武天皇には籠(かご)を表す天香山命(あめのかごやまのみこと)や、否(いや)を表す弥彦命(いやひこのみこと)などの別名もあります。
熊野(くまの)と書いて熊野(いや)と読むように秦氏の持ち込もうとしたネストリウス派のキリスト教(景教)を否定しているようです。
日本の節分では「鰯の頭も信心から」とキリストの冠であった「ヒイラギ」に「鰯の頭」を刺して「鬼」(悪魔)除けのまじないとします。
「信じる者は救われる」の正反対の意味を付けたのだと思います。
古事記の中で大国主命を何回も殺害する八十神(やそがみ)がいますが、八十(やそ)は耶蘇教(やそきょう)と言われたキリスト教の事で、秦氏を意味していると思われます。
大国主命が殺される度に母親の刺国若比売(さしくにわかひめ)が大国主命を蘇生させます。
この殺害された息子を母親が何回も蘇生させる神話の原型はエジプト神話のセトに殺害されたホルスを蘇生させるイシスの魔術の話などがあります。
イシスは聖母マリアであり、皇極天皇(こうぎょくてんのう)を意味します。
大国主命を蘇生させた後に刺国若比売(さしくにわかひめ)は、木の国の大屋毘古神(おおやびこのかみ)のところに行くように助言します。
大屋毘古神は蘇我倉山田石川麻呂の事で八幡神の中心的存在になる八咫鏡(やたのかがみ)を表します。
平安時代には鯔(ぼら)の頭が鰯の代わりに付けられていたそうで、鯔(ぼら)は鯔(いな)とも呼ばれていたので、否(いな)もNOという意味でYESではないという意味になるようです。
猪名部氏(いなべし)=忌部氏(いんべし)の推古天皇(すいこてんのう)を指すようです。
天武天皇も推古天皇も共にイエス様ではないという事のようです。
秦氏を表す「みんなの神様」=「御名の神様」である八幡神(やはたしん)のお使いは「鳩」になります。
ノアの方舟の話では「鳩」が「オリーブの枝」を銜えて戻って来て洪水が終わって陸地がある事を知らせます。
また、バプテスマのヨハネからイエス様が洗礼を受けた時に天が開けて「鳩」の形をした「聖霊」が降りてきてイエス様の肩に止まったとされます。
八幡神の主神である応神天皇(おうじんてんのう)は「否が応でも」(いやがおうでも)の「応」(おう)=YESの神になります。
そして、その中心人物として皇極天皇を象徴する神功皇后(じんぐうこうごう)がいます。
八幡神の「八」は「法輪」を表す「オリーブの樹」で、ヤコブの第8子のアシェル族を表し、元々は薬師如来(イエス・キリスト)を象徴する天武天皇を意味していたようですが、神功皇后(皇極天皇)を意味する阿弥陀如来(トマス)へと変えられたものと思います。
新約聖書にイエス様が自分を「人の子」と呼ぶ箇所が「八十八」箇所出て来ます。
私は「八十八」を表す日本の「米」(マナ)は、このイエス・キリストの「人の子」の意味が籠められていると思います。
日本では正月の「人日」(七日)に「米」と一緒に「新芽」である「春の七草」を一緒に粥として食べて一年間の無病息災を祈ります。
イザヤ書に例えとして用いられるダビデ(エッサイの子)から出る「新芽」(若枝)には「救世主」としての意味があるようです。
立春から八十八日目を八十八夜(はちじゅうはちや)と言い、五月は夏の到来を意味しますが、雪(推古天皇)の降りない農業に適した季節という意味があるようです。
蘇我倉山田石川麻呂を表す「茶」の茶摘みの時期もこの頃が良いとされます。
日本人が「人の子」に拘るのは、イエス・キリストが聖母マリアの子であると同時に人間である養父ヨセフの子であるという事を言いたいようです。
その為に、仏教の不二の思想は、神様(如来)が人間の心の中に種として最初から備わっているとする如来蔵思想(にょらいぞうしそう)へと発展して行きます。
人間も神様も同一という事で、一神教を信じる人々にとっては受け入れ難い考え方で神様への冒涜のように感じるかもしれません。
養父ヨセフも聖母マリアと同じユダ族だとされますが、これは救世主がユダ族から出るという伝承への拘りから変えられたもので、私はヨセフ族だと思っています。
ヨセフは日本人のルーツである消えた北イスラエル王国を代表する人物で、日本人とユダヤ人を結ぶ重要人物であり、ヤコブの兄であるエサウを象徴するエジプト人とユダヤ人を繋ぐ人物でもあります。
つまり、ヨセフ族とユダ族を結ぶ子供がイエス様で、サマリア人(北イスラエル王国の子孫)の多神教とユダヤ人の一神教を「隣人愛」で結ぶ存在だという事です。
キリスト教が長い歴史の中で信仰の自由を持つ民主主義へと変わってきたのもイエス様の本当の教えに気付いた人達のお陰なのかもしれません。
京都市宮津市の籠神社(このじんじゃ)は伊勢神宮の外宮の神様で「米」の稲荷神を表し、「籠」(こ)にはあくまでも「人の子」の「子」(こ)という意味と、神の「ご加護」=「籠」(かご)という意味があり、「ダビデの紋章」を意味します。
「契約の箱」に入っていた「マナの壺」は籠神社の奥宮と言われる真名井神社(まないじんじゃ)を表し、イスラエルの民を空腹から救った「マナ」が「米」の事で、「隣人愛」を指すのだと思います。
竹籠(たけかご)に出来る「六芒星」の形を「籠目紋」(かごめもん)と呼び、これが真名井神社の神紋になります。
日本神話では、ペルシアの神様である素戔嗚尊と、シュメール神話の大地母神である天照大神が誓約を交わした「天の誓約」(あまのうけい)が行われた場所になります。
その結果、天皇家の祖である八王子の「子」が生まれます。
それが八幡神で「神様の意志」である「聖霊」の「鳩」を表すのかもしれません。
キリスト教とは一言で言うとイエス様が人間の「罪」を代わりに受けて十字架にかかって償ってくれた事を信じる宗教です。
そこで、罪とは何かという事が問題になります。
アダムとイヴから受け継いだ子孫にも影響を及ぼす原罪(げんざい)という観念で、イエス様を救い主だと信じる事で罪から解かれるというのがキリスト教の考えです。
イエス様を救い主と信じると「聖霊の内住」が起こり、最後の審判の後の「永遠の命」が手に入るという教えです。
罪は「的外れ」の状態だと言います。
的とはいったい何なのかと言うと「神様の意志」です。
それが、「契約の箱」の中身である「十戒」に背いた人々を指します。
日本人は、「神様の意思」を「十戒」ではなく「鏡」だと考えたようです。
秦氏の祖である秦伊侶具(はたのいろぐ)が弓で「餅」(もち)を的に射たら、それが白鳥になって飛来し稲荷山に留まり、そこから「稲」(いね)が生じたという縁起を思いだします。
「米」から作った「餅」は鏡餅で、「鏡」を表します。
マタイの福音書11章28節~30節で「重荷を負っている人は私の所に来なさい。私が休ませてあげよう」「私の軛(くびき)は負いやすく私の荷は軽いからです」という言葉がありますが、そこから空海は「稲」(いね)を背負う老人の姿をした「稲荷神」を考え出したのだと思います。
キリスト教では創造主たる神様へ至る道はイエス様を通して成就されると言います。
その為、ヨハネの黙示録3章20節ではイエス様が戸の外に立って戸を叩くと言います。
イエス様を迎え入れるかどうかは個人の判断に任されます。
日本ではこの戸が一つではなく八つ作られたようで、八戸(やえ)が八重(やえ)として八正道の「光」である八幡神(はちまんしん)を表しているようです。
私には「法輪」のイメージが、どうしても「八芒星」の「ベツレヘムの星」のイメージと重なります。
神功皇后が、「マグダラのマリア」、「ヤコブの母マリア」、そして、「聖母マリ
ア」
の三人のマリアを象徴する宗像三女神の「三位一体」のイメージで、八幡神の本地垂迹が阿弥陀如来と言われています。
八幡神には八百万(やおよろず)の神様の代表という意味で、「一神教」と「多神教」は同じものだとする「一即多・多即一」の華厳経(けごんきょう)の東大寺の守護神で、「聖霊」を表すようです。
中国の宋代に臨済宗の僧であった圜悟克勤(えんごこくごん)によって華厳経と禅が結びつきます。
十枚の鏡を張り巡らせた中央に蝋燭を置いて火を灯せば鏡に映った火は何十倍にも重なり合っていき、宇宙が広がっていくという「十十無尽」(じゅうじゅうむじん)という華厳経の言葉があります。
鏡は自利利他(じりりた)を表しています。
他人の利益も自分の利益と同じだと思える悟りの境地を目指す努力です。
二本の十字架は大乗仏教に影響を与えた西洋のイエス様と東洋のトマスを表しているのかもしれません。
本来は一つであるものを人間が勝手に敵と味方に分けているようです。
おそらく、「隣人愛」へと至る道は一つの宗教だけではなく、全ての宗教に戸が開かれていると私は思います。
芥川龍之介の小説の「蜘蛛の糸」は「隣人愛」の狭き門、細き道を表していて、主人公のカンダタが他人を蹴落として自分だけが助かろうとした瞬間に「蜘蛛の糸」が切れて地獄に転落してしまいます。
「ヨハネの黙示録」はキリスト教を信じる者だけが天国に行き、それ以外の隣人は地獄に行くというものです。
「蜘蛛の糸」は仏教を題材としながら、「ヨハネの黙示録」の預言が外れる事を預言した小説だと私は思います。
人類の選択肢は二つだけで、人類全員が「隣人愛」を守って天国に行くか、人類全員が「隣人愛」を捨てて地獄に行くか、その二つしかないという事だと思います。
つまり、どちらになっても「ヨハネの黙示録」の預言が外れるというわけです。
おそらく、芥川龍之介はイエス様が一番大切にしている「隣人愛」の教えに「ヨハネの黙示録」が矛盾している事に気が付いたのだと思います。
同じく芥川龍之介の小説である「神神の微笑」では宣教師オルガンティーノが天岩戸から出て来た太陽神を見て卒倒しますが、その後、現れる首から勾玉をかけた奇妙な老人から、日本では「でうす」(キリスト教の神)も負けてしまい、八百万の中の一つの神様になってしまうだろうと預言されます。
この小説はあくまでパロディで、20億の信者を持つキリスト教に人口1億人の少数派の日本人が適うはずがないのですが、日本人のロボットや、漫画、アニメなど多神教の文化が世界に与えてる影響は少なからずあるように思います。
「聖霊」の本質が日本では万物を照らす「太陽」だという事を芥川龍之介が言いたかったのだと思います。
日本で誕生した天照大神である推古天皇は、秦氏の影響で誕生したアジアで初めての女帝でした。
私は、初期キリスト教徒から「信仰の鏡」と称された「マグダラのマリア」が、天照大神の誕生に大きく関わっていると思っています。
ひょっとすると推古天皇はイエス・キリストの血を受け継いだマグダラのマリアの子孫で、日本の天皇家の血の中に今も流れているのかもしれません。
マグダラのマリアの頭蓋骨は南フランスのサントボームの洞窟の麓にあるサン・マキシマム教会にあり、身体の遺骨はないそうです。
マグダラのマリアの遺骨は五つの地域から見つかっていて、本来は一つの場所にあるはずの遺骨が五つに分けられたのかもしれません。
お釈迦様の場合は八つの部族に遺骨は分与され、それぞれの寺院で塔に納められ供養されました。
八が仏教徒にとって特別な数字なのも、こういう所からも来ているのかもしれません。
塔を五輪塔(ごりんとう)で造るのは密教の影響で、宇宙の構成要素である陰陽五行の元素を表します。
美の女神アフロディーテが金星として「五芒星」で表され、カトリックで「五芒星」が不吉の星とされるのも、カトリックが滅ぼした東方正教会のシンボルがマグダラのマリアだったからだと私は思います。
五はマグダラのマリアの遺骨を表す聖数だというわけです。
インドのヒンドゥー教のカースト制度で最下層のロマの人々が音楽を生業として黒いマリア像を信仰したのも、ヒンドゥー教の地母神カーリーと重ね合わせていたからだと私は思います。
カーリーはマグダラのマリアを神格化した神様で、おそらく、トマスがインドに布教に行って差別を受けているロマの人々に人間は平等だと励ましたんだと思います。
そして、カーリーが破壊神の性格を持っているのはイエス様を「救いの神」ではなく、「裁きの神」へとヨハネが変えたからだと思います。
黒いマリア様は弱者の味方のようです。
ロマの人々がジプシーと呼ばれて西洋社会に流れ込み、クラッシックで始まった宮廷音楽の合間の息抜きにジプシーの大衆音楽が楽しまれるようになり、それが、現代のロックなどに繋がって行きます。
日本では雅楽(ががく)と呼ばれる音楽を日本に伝えた天皇で海の底に沈んだ乙(音)姫様になります。
万葉集のキリスト教を表す「八十」(やそ)の枕詞が「言霊の」(ことだまの)なので、ヨハネの福音書の「言葉は神であった」から「歌(言葉)は神であった」という意味が万葉集には含まれているようです。
歌も音楽の仲間という事で、素戔嗚尊の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」に始まる
和歌(わか)も「愛」の内容を歌ったものが主流になるようです。
大分県に妻垣神社(つまがきじんじゃ)と呼ばれる神社があり、御祭神は玉依姫(遠智娘)とされますが、本当は推古天皇の意味を含んでいて、「垣」(かき)には「囲い」(かこい)=「鹿恋」(かこい)の意味があり、藤原氏の「鹿」(鏡王女)で推古天皇を囲う事を意味するようです。
この為に、万葉集で一番多く登場する動物が「鹿」で、求愛の為に鳴く「鹿」を人間の「愛」に例えた歌が大半になります。
「鹿」(鏡)が「愛」の象徴だというわけです。
世界最古のオーケストラと言われる雅楽の八佾舞(やつらのまい)は64人で行われますが、8人づつ8列に並んで8✕8で、「八十八」を意味するようです。
諸侯は6✕6=36人で六佾舞(むつらのまい)、太夫は4✕4=16人で四佾舞、士は2✕2=4人で二佾舞と、厳格に身分によって人数が決められていました。
因みに六連星(むつらぼし)は孔雀明王の天武天皇を意味し、六佾舞(むつらのまい)に当たるようです。
八佾舞は天皇(天子)にしか許されない舞であったのに蘇我蝦夷が皇極元年に行った事が日本書紀に記されています。
蘇我氏が滅ぼされた原因が天皇を蔑ろにして身分を弁えない行いにあったという分けです。
国内で、八角形墳陵(はっかっけいふんりょう)が、段の塚古墳(舒明天皇)、牽牛子塚古墳(斉明天皇)、御廟野古墳(天智天皇)、野口王墓古墳(天武・持統天皇)、束明神古墳(草壁皇子の伝承あり)、中尾山古墳(文武天皇)、岩屋山古墳(斉明天皇の説あり)と七つ見つかっていますが、叡福寺北古墳(孝徳天皇)が八角形墳陵であった可能性が指摘され、八つの可能性が出てきています。
もし、そうであったならば、これも、8✕8の八佾舞を表していたのかもしれません。
占いの易経(えききょう)も八十八の64卦で世界を表します。
ジプシーが占いに使用したタロットカードも、殷で亀の甲羅を焼いて吉凶を占ったのも、鬼道(占い)を行った卑弥呼(推古天皇)に繋がります。
聖書では占いは禁止とされていますが、占いは夢から未来を預言するヨセフ(天神)から始まるもので、宿命や運命を星や夢など、他のものから察して神様の啓示を読み取ろうとするものです。
幻視のヨハネの黙示録も広議の意味で占いに含まれるものと私は思います。
日本の神社で引ける「おみくじ」も同様です。
東大阪市の瓢箪山稲荷神社(ひょうたんやまいなりじんじゃ)は「辻占」(つじうら)の総本社とされますが、「辻」(つじ)とは「十字路」の事で、元々は「キリスト教」を意味していたものと私は思います。
安倍晴明神社が近く、京都の「辻占」で有名だった「一条戻り橋」も、死者が蘇った「橋」としても有名です。
「瓢箪から駒」(ひょうたんからこま)という諺(ことわざ)がありますが、元は宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)の腰折雀(こしおれすずめ)に無限に米が出てくる瓢箪の話が載っていて、「瓢箪から米」(ひょうたんからこめ)が語源のようです。
「瓢箪」(ひょうたん)は道教では不老不死の「酒」を入れる容器で、仙人の持ち物とされ、推古天皇を象徴する七福神の寿老人(じゅろうじん)と藤原鎌足を象徴する福禄寿(ふくろくじゅ)の持ち物であったりします。
その不老不死の「酒」の代わりが日本では「米」になったわけです。
日本人がキリスト教の「葡萄酒」ではなく、「米」から「日本酒」を作った理由がなんとなく推測出来ます。
道教の張果老(ちょうかろう)という仙人が折り紙に水を掛けて「ロバ」を作り、それを乗り物にしていた話があり、白狐の子である安倍晴明(あべのせいめい)が折り紙から「式神」(しきがみ)という「鬼」を作り従えていた話と共通点を感じます。
「ロバ」は馬よりも小さく、イエス・キリストの象徴になります。
「駒」(こま)は「独楽」(こま)の「車輪」の意味がありますが、高麗犬(こまいぬ)の「高麗」(こま)で朝鮮半島の新羅人(しらぎじん)を指しているのだと思います。
本来は高句麗人(こうくりじん)の「大きな馬」=「麒麟」(きりん)だったのが、新羅人の「小さな馬」=「犬」=イヌ科の「狐」(きつね)になったようです。
蘇我氏を象徴する一角獣の「麒麟」の代わりが白虎の「狐」というわけです。
「猪」(いのしし)の子供は、模様が「瓜」(うり)に似ている事から「瓜坊」(うりぼう)と呼ばれますが、同じウリ科の植物である「瓢箪」を「狐」と関係付けて、推古天皇の「猪」と「瓜二つ」の関係になろうとしたのだと思います。
イエス・キリストが処刑されたのが13日の金曜日という事で13という数字と金曜(金星)は不吉なものとされます。
しかし、私は13も、金曜もどちらもマグダラのマリアを指すものだと思います。
イエス・キリストの弟子は12使徒と言われますが、私は本当はマグダラのマリアを加えた13使徒だったのだと思います。
ヤコブの子供である12氏族も、ディナという娘を加えると13になるのですが、この女性はマグダラのマリアを象徴するようにすぐに陰に隠れてしまいます。
旧約聖書の創世記ではヒッタイト人(ヒビ人)の氏族であるシェケム族のシェケムがディナに惚れて性的暴行を加えて、ユダヤ人のヤコブ達家族に是非、ディナをシェケムの妻に貰い受けたいと申し出ます。
ヤコブ達家族は異教徒と婚姻関係になる事を拒み、ユダヤ教に改宗して割礼を受けることを条件にします。
シェケム族はそれを受け入れ割礼するのですが、ヤコブの子であるシメオンとレビが騙し討ちをして剣でシェケム族を虐殺する話が書かれています。
つまり、シメオンとレビは兄のエサウと同族になる事を拒んだという事です。
ヒッタイト人は元々はヤコブの兄であるエサウの子孫で、日本の物部氏に当たるものだと思います。
日本書記では、推古天皇を犯そうとした穴穂部皇子を阻止した三輪逆(みわのさかう)を不遜として、穴穂部皇子が物部守屋を遣わせて三輪逆を殺害した話が書かれています。
この為、蘇我馬子と推古天皇から物部守屋と穴穂部皇子が嫌われる形となり、両者ともに滅ぼされてしまいます。
法隆寺の側には藤ノ木古墳があり、法隆寺はこの藤ノ木古墳の被葬者の弔いの為に建てられたお寺だと私は思います。
藤ノ木古墳の被葬者については前園実知雄氏(まえぞのみちおし)や白石太一郎氏(しらいしたいちろうし)は穴穂部皇子と宣化天皇(せんかてんのう)の皇子の宅部皇子(やかべのみこ)の可能性が高いと指摘しています。
井沢元彦氏(いざわもとひこし)や高田良信氏(たかだりょうしんし)は穴穂部皇子の墳墓に同じく蘇我馬子の東漢駒に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)を合葬したとする説を唱えています。
諸説ありますが、穴穂部皇子に関しては意見が一致しているようです。
藤ノ木古墳の被葬者は蘇我馬子に恨み(怒り)を抱いている人物です。
この推古天皇と穴穂部皇子の関係は、ディナとシェケムの関係と似ているようにも思えます。
物部守屋の守屋(もりや)は諏訪大社(すわたいしゃ)の本当の御神体と思われる守屋山(もりやさん)と共通し、生贄を求めていた為に酒を飲まされて素戔嗚尊に退治された八岐大蛇(やまたのおろち)を意味します。
創世記で「我が子イサクを捧げよ」と言われた生贄の山、モリヤ山と同じ山を連想し、兄のエサウが生贄を求めているかのように聞こえますが、実際は違うという事を言いたかった為に諏訪大社が建てられたのかもしれません。
諏訪大社の御祭神で生贄の神様である建御名方神(たけみなかたのかみ)は天武天皇の事で、モリヤ山で祀られるのは縄文時代からの蛇の神様である「蛇口神」(じゃこうじん)=ミシャグジになります。
正体は縄文人(エサウ)と同族となったダン族の物部氏で、その物部氏の子孫である天智天皇に娘を嫁がせて同族となった蘇我倉山田石川麻呂を表します。
ミシャグジを「石神」と書くのもこの為です。
手水舎で龍の像が水を吐き出したり、水道の口を「蛇口」(じゃぐち)と言ったりしますが、手水舎は「鏡」を意味し、旧約聖書の中の「神の言葉」の意味もある「青銅の洗盤」に当たります。
ユダヤ教の伝説では、このシェケムの妻にならなかったディナはヨセフの妻になったとも言われています。
ヨセフはユダヤ人を象徴する獅子のユダ族に井戸に落とされてエジプトへ奴隷として売り飛ばされた人物で、夢占いが当たる事からエジプト王の夢の意味を解いて宰相の地位まで登り詰めた人物です。
ヨセフ(土師氏)は「牛」を象徴し、「麒麟」をシンボルとするエフライム(蘇我氏)と「鳳凰」をシンボルとするマナセ(秦氏)の父親です。
このエフライムがユダ族とベニヤミン族の南ユダ王国に対して、十部族の北イスラエル王国を築く人物です。
「牛」や蛇を信仰したエジプト人と同じ日本人のルーツです。
イエス様の本当の父かもしれない養父ヨセフは、おそらく「牛」のヨセフ族を象徴していて、ヤコブの兄で「蛇」としてエジプト人の祖となったエサウにユダ族が吸収される事をモーセは嫌い、エジプトを脱出したのが「出エジプト記」になります。
私はイエス様は「牛」(ヨセフ)や「蛇」(エサウ)の直系の子孫なのではないかと思います。
黄道十二星座は、本当は黄道十三星座で、ギリシャ神話の医学の神で「蛇」の神であるアスクレーピオスが星座になったとされる「蛇使い座」が実は数に数えられていない隠された星座になります。
アスクレーピオスは死者を蘇生させる方法を見つけた為に世界の秩序を壊すと冥界の王ハデスの怒りを買い、ハデスの抗議を受けたゼウスによって雷に打たれて死んでしまいます。
ラザロを蘇生させて民衆をたぶらかすとしてユダヤ人指導者達からローマに引き渡され処刑されたイエス様と共通点があるように思います。
「蛇使い」とは民数記で「青銅の蛇」の杖を用いたモーセでもあり、列王記ではアシェラ像と共に「青銅の蛇」は破壊されます。
ヨハネの福音書の3章14節から15節で、イエス様がモーセが「青銅の蛇」を天に上げたように「人の子」もまた天に上げなければならないと言い、それはイエス様を信じるものが「永遠の命」を得るためだと書かれていて、「青銅の蛇」はユダヤ人から処刑されたイエス様を表しているとも言われています。
「蛇使い座」は日本では「讃岐の箕」(さぬきのみ)と呼ばれ、「箕」(み)は「米を掬う農具」を意味します。
「掬う」(すくう)と「救う」(すくう)の意味を掛けているのだと思います。
讃岐(さぬき)は現在では金比羅(こんぴら)さんの国ですが、元々はマグダラのマリアを象徴する忌部氏(いんべし)の国で、かぐや姫の「竹取の翁」が「讃岐造」(さぬきのみやつこ)と言われたように「翁」である藤原氏の国も意味します。
藤原鎌足は太公望(たいこうぼう)として恵比寿さんのモデルとなった人物で、荒神(ルドラ)と習合する猿田彦大神(ハヌマーン)でもあります。
大阪府の箕面市(みのおし)は箕面公園の「箕面の滝」(みのおのたき)の滝の形が「箕」の表(面)に似ている事からこの名前が付いたと言われています。
箕面(みのお)の「面」(お)は能(のう)で使用される能面(のうめん)の意味もあるのかもしれません。
泥酔した胡(ペルシア)の王の「面」(めん)とされる酔胡王(すいこおう)が奈良の正倉院にありますが、赤い泥酔した猿の猩々(しょうじょう)など、天細女命(あめのうずめのみこと)の推古天皇を表します。
滝も湍津姫(たぎつひめ)で推古天皇の意味もあるので、箕面の滝が秦氏の「面」だという意味にもなります。
箕面市と言うと野生の猿が多く生息する事から天細女命の夫である猿田彦大神(白髭明神)の意味もあるのかもしれません。
京都の猿田彦大神を意味する比叡山の延暦寺とお稲荷さんの白馬を意味する鞍馬寺を結ぶ最短ルートが薬王坂(やこうざか)と言われる坂道です。
名前の由来は伝教大師、最澄(でんぎょうだいし、さいちょう)がこの坂で薬王如来(やくおうにょらい)に出会ったという伝承から付けられた名前だそうです。
薬王如来はもちろん薬師如来(やくしにょらい)と同じくイエス様を表していますが、釈迦如来(天智天皇)の脇侍で、阿弥陀如来(皇極天皇)に従う二十五菩薩の一人の薬王菩薩が如来になった姿を表しているようです。
薬師如来(天武天皇)を釈迦如来(天智天皇)や阿弥陀如来(皇極天皇)に従属させる目的があったのだと思います。
二十五という数字はおそらく、死んだ人間が行くとされる三界を細かく分けると二十五あり、二十五有(にじゅうごう)と呼ばれる事から、死んだ全ての人間に対応する能力を阿弥陀如来が持っている事を表しているようです。
二十五有のルーツはバラモン教だと言われ、大乗仏教の浄土教はこれをベースに生まれたのだということです。
中将姫で有名な當麻寺(たいまでら)では二十五菩薩の「面」を被った練供養(ねりくよう)の発祥地として知られます。
二十五菩薩の「面」の中身が全て阿弥陀如来だという意味が隠されていて、その化身が藤原豊成を中心とする中将姫になるようです。
この薬王坂が「箕ノ裏ヶ岳」と繋がっていて、「箕ノ裏ヶ岳」は古くは、藤ヶ森と呼ばれ、天武天皇を吸収した藤原氏が「箕」の裏側、中身だという事なのかもしれません。
箕面市にある勝尾寺は元々は弥勒寺(みろくじ)と呼ばれていて、天武天皇が弥勒菩薩(救世主)を意味していたのだと思いますが、現在は天智天皇の尾である尾張氏(おわりし)になります。
「蛇」を象徴する恵比寿さんの十日戎(とおかえびす)に竹で編んで藤の皮などで結んだ「箕」に七福神や、六つの米俵の「六俵」(むびょう)=無病を意味する縁起物などを飾る「福箕」(ふくみ)が知られます。
密教では「牛」を象徴する大黒天(シヴァ)とその后の「獅子」を象徴する訶梨帝母(カーリー)が結ばれて大日如来となります。
「牛」であるエサウ(日本人)と「獅子」であるヤコブ(ユダヤ人)が一つになると「太陽」が生まれるという事のようです。
未曾有経(みぞうきょう)では獅子に襲われて井戸に落ちた野狐(やこ)が死を覚悟して悟りを開き、その声を聴いた帝釈天が野狐を井戸から救い上げ、野狐を師として三宝の教えを受け取り、ロバに生まれ変わる輪廻から解脱したという話が書かれています。
野狐は黒いジャッカルの事でマグダラのマリアを指すようです。
ロバは重い荷物を担がされる奴隷の象徴で、イシュマエル人を指し、ヤコブに長子の権を奪われたエサウの子孫のエジプト人を指します。
この未曾有経を見ると自分より身分が低かった藤原鎌足(野狐)を師とした天智天皇(帝釈天)の姿が目に浮かびます。
ルカの福音書に洗礼者ヨハネの首を切り落としたヘロデ王をイエス様が「あの狐」と呼ぶシーンが書かれていますが、本来、狐は死を遣わすヘロデ王の象徴ではなく、イエス様が最も愛したマグダラのマリアの愛の象徴だったと私は思います。
天台密教の渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)や、御流神道(ごりゅうしんとう)では天照大神が天岩戸に籠った時には狐の姿だったという話も伝わっています。
死を不浄と取る人物には狐は死神と映り、清浄と取る人物には狐は愛と映り、世界が大きく変わるようです。
不浄と見ているのは実は鏡に映る自分の姿なのかもしれません。
生と死はハートとドクロで、表裏一体で分ける事が出来ないという事です。
クラッシック(清浄)とロック(不浄)も然りです。
日本では、黒い野狐を白い狐に変えて真如を表しているのだと思います。
お稲荷さんが持つ如意宝珠(にょいほうじゅ)が舎利(しゃり)に例えられ、日本でお米を「銀(白)シャリ」と呼ぶのも、マグダラのマリアを象徴する髑髏(死)が仏教の仏舎利信仰と重なって日本人の中に流れ込んだのだと思います。
五智如来、五大明王、五大虚空蔵菩薩など、「五芒星」は悪魔のシンボルなどではなく、五体の「人の子」を表すシンボルのようです。
5も、13も、金曜も、汚れたものではなく、人間の一つの形なのだと思います。
「人魚姫」である乙姫様は海の底の竜宮城で、藤原鎌足である浦島太郎に永遠の命を持つ「神の子」から普通に死を受け入れる「人の子」へと戻る「玉手箱」を授けます。
私は、この箱の中身は「隣人愛」だと思っています。
神を愛するあまり、人を愛せなくなった偽りの愛ではなく、イエス様の真の教えである「隣人愛」です。
「契約の箱」を意味する「亀」は「六芒星」(ユダヤ教)であり、「神のご護」の「籠」(かご)を意味します。
「隣人愛」の「法輪」(仏教)は、「太陽」(キリスト教)を象徴する車輪であり、和を以って貴しとする「八咫の鏡」(やたのかがみ)を意味します。
「契約の箱」に阿弥陀如来の誓願を入れた理由は、地獄の否定であり、「隣人愛」がなければ誰も救われないという証(あかし)なのかもしれません。
そして、その陰にはいつもトマスがいるような気がします。