伽耶の地図、4~5世紀終わり頃
「都怒我阿羅斯等」の像(敦賀駅前) |
「古事記」においては、次の代の多遅摩比多詞(タジマヒタカ)の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命(カツラギタカヌカヒメノミコト)であるとされています。
しかし「日本書紀」においては「アメノヒボコ」の妻の阿加流比売神(アカルヒメカミ)と結婚したのは意富加羅国(おほからのくに)王の子の「都怒我阿羅斯等」(ツヌガアラシト)とされている点で異なります。 意富加羅国(おほからのくに)とは、伽耶国(かやこく)のことです。 「アメノヒボコ」と「ツヌガアラシト」は、同一人物のように似たような境遇で書かれていますが、おそらく別人だと思われます。 別人と思われる理由については、こちら 秦の始皇帝の労役から逃れて来た人々を、百済(馬韓人)が東に住まわせたのが新羅(辰韓人)ですが、言語は、伽耶国(弁韓人)と同じで、穀物と稲を育て、養蚕を生業としていて、新羅と伽耶国は、よく似通っていたそうです。 しかし、新羅の王族は辰韓人はなれず、馬韓人がなったと言います。 だから、日本から見ると、新羅も、伽耶国も、同じ言葉を話す民族なので、新羅から来たと書かれたのかもしれません。 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)とは、その名の通り「角がある人」だと言われます。 「日本書紀」垂仁天皇2年の条に、「一書にいわく」、という形で、 「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越の国に泊まれり。 彼、そこを名づけて「角鹿」(つぬが)という」というような記述があるそうです。 |